試練

2018年9月9日

聖書を翻訳したものだけだと感じませんが、原文ではここはとんでもないところです。3節から12節まで、13節でようやく「それゆえに」と区切れらしくなるまで、ひとつの文と見ることができるのです。一応切ることは可能なのですが(古代の文には句読点が書かれていない)、よく見ると関係代名詞などで、次々と受け継がれて文が続いていっています。文とは、読点「、」はあっても、句点「。」が途中にひとつも入らない、ということです。物事を正確に言おうと努めたい場合に一文が長くなる場合がありますが、ここは必ずしもそういう雰囲気ではなく、だらだらと続くようで、褒められた文章ではありません。
 
さて、今回は「試練」という語に着目してみます。この試練という語(ペイラスモス)の意味は、試みること、いわば「テストする」ということです。その意味の動詞(ペイラゾー)を名詞にしたものだからです。あなたの信仰は本物なのか、とテストされる感覚ですから、たとえば、荒野の誘惑のような様子もそうなのでしょう。選択肢が与えられて、どちらを選ぶか、というテストもあるでしょうし、どうしてよいか分からない状況に遭遇する場合もあるでしょう。
 
たんに知識があるかどうか、あるいは、選択肢が与えられたら正しいものを選べるかどうか、従来の入試レベルでのテストは、そのような観点で作られていました。けれども人生や世の中では、そのような選択肢が明確にある場合はむしろ稀でしょう。また、ただの知識であれば、ウェブ検索で数秒で分かる時代です(ああ、私の学生時代にこれがあったなら、どれだけ時間を浪費しなくて済んだだろう……いや、浪費はしただろうな)。知識の有無というよりも、知識の連関や調べ方の巧みなことの方が重視されるようになりました。その上で、リテラシー能力が問われ、適切な判断ができるのか、またそのデータからどういう結論や進路を生み出すことができるか、が重要になりました。
 
そこでいま、大きな教育改革が行われています。より実際的な問題発生状況の中で、その問題を解決していく営みが身についているかどうか。その解決のために他人と協力できるかどうか。そのためにも、自分の考えを適切に表現し、伝えていくことができるかどうか。こうした観点から、積極的・行動的な学び方が、大学から順に降りて行き、いまは小学生も通常の授業で取り入れられるようになってきています。テストの内容や形式、そしてあり方が、大きく変わってきていのです。小中学生の親は、かつての自分の受けた教育や当時の常識を、一変させなければならなくなりました。
 
話を元に戻しましょう。信仰についても、テストを受ける、この表現はなんとも嫌なものでしょう。テストに合格しないと神の国に入れないのか、とうんざりするかもしれません。待てよ、そもそも信仰とはテストされるものなのか、と反論したくなる人もいるでしょう。神の恵みにより救われたのであって、自分の能力が問われるテストなどで合格しなければならないということがあるのか、と。他方また、イエスを主と告白することがテストであるならば、それは必要なのではないか、と考えることもできるでしょう。その思いが、様々な神学を立てることとなりました。それぞれの神学があり、それぞれの教義や解釈が成立します。
 
長々とテストのことをお話ししたのは、この書簡の「試練」について、迫害の嵐に耐えることを勧めている、という理解が存在するからです。もちろん、そうした迫害が皆無であるとは言えないでしょう。確かに、ローマ帝国による迫害は、確かに64年の皇帝ネロによる迫害は有名ですが、放火犯として処刑したに過ぎないとも言われています。しかし、ローマ帝国は、宗教そのものについては比較的寛容な支配を心がけていましたので、私たちが安易にイメージするほど、迫害ばかりがずっと行われていたのではないとすべきです。2世紀になる頃の前後に迫害があったとする記録もありますが、その時にはむしろユダヤ教徒の迫害が強い中、キリスト教徒も巻き込まれたという説もあるようです。但し、皇帝を「主」と呼ぶようにという命令が出されたことがあるので、偶像礼拝を強要されて従えない信徒を、正式な法的措置でなしに処罰したというようなことは行われていたとも聞きます(ローマ帝国は法律が発展しており、ローマ法はある意味で現代も法体系の基礎となっているという)。従って、歴史に名だたる猛烈な迫害は、3世紀半ばから4世紀の初めにかけてです。もちろん、新約聖書が書かれたのは遅くて2世紀前半ですから、後の時代の大迫害がここに描かれる可能性はありません。キリスト教徒だという理由で探し出していたというサウロ(パウロ)はユダヤ人による迫害でした。使徒言行録を見ても、ローマ帝国がキリスト教を迫害したような様子は見られません。
 
このペトロの名による書簡では、この後も、聖い生活をするようにという勧めが延々と続いています。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(4:7)というように、終末をにおわせる表現もありますが、キリストの再臨についてはパウロ以来、教義の一つでしたから、これに触れたことがそのまま迫害の嵐ということにはつながらないでありましょう。確かに、時が経てば、世の終わりを強調するよりも、教会組織を整える視点が増えてくるのは事実ですが、万物の終わりを意識して襟を正しましょう、という教えは、止める必要はありませんでした。
 
なお、ここの「火で精錬されながらも朽ちるほかない金」の意味が、私にはどうしてもよく意味が分かりませんでした。こういうよく分からない訳があると頼りになるのが、田川建三氏の新約聖書の解説です。その解説は、他の口語訳や岩波訳をも持ち出しながら、訳として適切でないことを指摘しています。彼自身の訳は「火で検証された金」であり、ここにも「テストされる」意味があってこそ文意が成立する、と言っています。「精練され」と訳された原語は「試す」「試験する」という意味の語(ドキマゾー)ですから、そのまま訳しておいても差し支えなかったと思われます。つまり、ここでの意味は、火でテストされても変質などしないことから、これは紛れもなく本物の金ですね、ということが分かったその金にしても、いずれは滅びてしまうのだから、テストされて本物だと証明されたキリスト者の信仰は、もっとすばらしいもので、審判の日に合格を戴ける永遠のすばらしいものなのですよ、と言っていることになります。これなら確かに意味が通ります。
 
これは受け取り方や解釈の仕方になりますが、私たちの意志や能力によって、このテストに合格するというのではないように私には見受けられます。聖霊が私たちを動かしているいま、すでにテストを乗り越えて、だからこそこうして生かされている、教会に来ている、その他何でもよいのですが、神を思って歩んでいる、そんな事実があるのではないか、と考えたいのです。その上で、せっかく合格させて戴いたのだから、退学宣告を受けないように喜びの生活を続けていきたいものだ、と思います。また、そのようにお奨めしたいと思います。



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