たくさんの「ありがとう」
2018年9月8日
突然、事故で――犯罪被害者となって――災害に巻き込まれて――逝ってしまった身近な人、とくに肉親に向き合って、私たちは呆然とすることでしょう。
もっとああすればよかった。もっとこうすべきだった。もちろん悲嘆に暮れることでしょうが、また、後になってしか沸き起こらない感情に心を支配されることもあるでしょう。
これを呵責と呼んでよいのかどうか分かりませんが、いなくなって初めて、その大切さを噛みしめる。これは物を紛失して学習していると思いきや、人に対してなんら反省なく、後悔することばかりのようです。
病で日々弱っていく。その姿は当人もさることながら、見るほうも辛いものがあるかもしれません。けれども、行こうとすれば毎日行ける環境にあるということは、ありがたいことであるとも言えるでしょう。
お別れの時間を与えられたこと。「ありがとう」と言えたこと。イエスは、よみがえりであり、いのちである、と、まだ聞ける時に聞かせることができたこと。
前に入院したときに、十字架は痛かっただろうねぇ、としみじみ言っていたことが忘れられません。お寺育ちのあなたにしてみれば、私に気を遣い、その話はやめてくれ、と言いたかった心があったことでしょうが、それをぐっと抑えたかのようにして、私が訪れるのをにこやかに迎えてくれました。むしろ、信仰といったレベルの出来事において、通じるものがあることは、直感的に、分かっていてくださったかもしれません。
ここにはのぞみがあります。それを育てる時間が与えられました。そのことに、涙の中で感謝したい。
それから、大切なこと。あなたに産んで戴いて、幸せでした。そのことは、ちゃんと伝えました。まだ聞こえている時に。
たくさんの「ありがとう」を、伝えました。