名前を間違えるということ
2018年9月4日
名前を間違えるということは、私に言わせるならば、悪です。
いえ、私もやってしまうことがあります。気づかないでいる場合もありますが、指摘されると全面的に謝罪するしかありません。明らかに他者のみの責任である場合は必ずしもその限りではありませんですが、自分に責がある場合には言い訳はしません。少なくとも、したくない気持ちです。
実際に目の前にいる方のお名前を失念することも度々で、このあたり、故田中角栄氏のように、徹底的に出会った人の家族や趣味など細かなことまで覚えていたことで人脈を築いた、というような人の話を聞くと才能と努力とに敬服するしかないのですが、直接目の前で、失礼覚悟で間違えたりお尋ねしたりということで、自分の恥とすることで、逆に関係を築きたいものだ、と甘えた考えでいる次第です。
しかし、と言い訳のようなことをした後で恐縮ですが、書いて発表してしまうと、取り返しが利かない場合があります。試験の合格発表で名前を間違えると、その人の一生を左右することになるかもしれません。別の名前で知らせたことが本人に伝わらなかったということで、重大な権利を放棄させることがあるかもしれません。患者の名前を間違えると、その人の命を失わせることにもなりかねません。映画「そして父になる」はまた違うシチュエーションですが、全くの無関係ではないように感じているのが正直なところです。
SNSは手軽に情報を発信できますが、名前を間違えることでひとの人生を変える可能性があることを思うと、緊張します。私は、何かやらかしているという恐れを抱きながらいろいろ書き綴っておりますが、それはひとのプライバシーを安易に晒していないか、ということについても当然言えます。DVやストーカーの被害者の住所をうっかり狙う側に教えたなどというとんでもない報道が時々ありますが、きっと似たようなことはもっとあるのだろうと思います。報道に出るのは、ほんの氷山の一角ではないか、と。
皆さまの教会では、そんなことはありませんか。教会の文書で、ひとの名前を軽く扱っているようなことが。もしあれば、私は嘆きます。しかも、間違えたことの重大さを、少しも感じておらず、恥ずかしいとも思わず、そんなもんですよ、と笑い、同じことを繰り返しているということがあるとすれば、いったい「神の名」をどのように考えているのか、疑いたくすらなります。少なくとも、信頼を置くことはできません。
【名前の間違いを指摘する者など、ウザいとお思いでしょう。世間でそのように扱われることについては、とやかく申しません。「世」はそういうものだろうと諦めます。しかし、キリスト教会と名のるところやその責任者が、ウザいと怒り、名前を軽んじているとなると、もはやその「信」を捨てているのだ、としか思えないのです。】
偏見でしょうか。愛のないわがままなのでしょうか。