サウル・サウロ・パウロ
2018年8月19日
使徒言行録9章には「サウロの回心」というタイトルが、新共同訳には付けられています。漢字の書き取りテストならば「改心」が一般的ですが、ここでは「回心」です。心を入れ替えるという一般的な意味の「改心」ではなく、神に出会い、心の向きが180度転換する体験は「回心」と表現します。
この章には、興味深い訳し方が見られます。
サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と(イエスが[9:5参照])呼びかける声を聞いた。(9:4)
地に倒れた人の名は「サウロ」ですが、イエスはこの人物の名を「サウル」と呼んでいます。以前の訳では、これでは読みにくいということからか、「サウロ、サウロ、なぜ……」としたものもありましたが、最近の訳は「サウル、サウル、なぜ……」と原文に即して表現するようになってきています(フランシスコ会訳は旧いままです)。
もちろん、この人物は、最大の伝道者とされるパウロのことです。新約聖書の多くの書簡を執筆し、キリスト教神学の形成のためにも重大な影響を与えました。パウロなしには、キリスト教は世界に拡がっていなかったのではないか、とも思われるほどの貢献をした人物です。
13:9で魔術師エリマに対したときに、「パウロとも呼ばれていたサウロ」という注釈が入り、これが「パウロ」の初出となります。続く13:13からは一貫して「パウロ」という表現に転じます。但し、パウロが自分がイエスと出会ったときのことを証しする機会があったときに、この9章の出来事を説明するために、イエスが自分を呼びかけた場面を「サウル、サウル」語る場面が22:7,22:13,26:14に見られますが、そのときにも、人物の名はずっとパウロが保たれています。他に13章で出てくる「サウル」というのは、イスラエルの初代の王サウルのことで、パウロを指すものではありません。
サウロというのがユダヤ式の名で、パウロというのがギリシア式の名であり、コスモポリタン的な生き方をすることのできる立場の人間は、当時世界的に通じるギリシアの名をももっていたことがあると言われています。今でも、英語でのニックネーム的な名をもつ人はいます。現地で呼ばれやすいようにという配慮もありましょう。海外で活躍するスポーツ選手にはよく見られる現象です。
ユダヤ式のサウロという呼び名は、パウロがキリストと出会って救われる前の名で、キリストを信じたからパウロに変わった、と、恰も洗礼名のような感覚の説明を見ることがありますが、何の根拠もありません。13章の初めまで、しばしばバルナバとペアで、ずっとサウロで書かれているからです。
さらに、最初に紹介した、ダマスコ途上でイエスと出会ったときの「サウル、サウル」という呼びかけです。これら3つの呼称は、どう使い分けられているのでしょう。私たちはどのように読むことができるのでしょう。なお、「サウル、サウル」と二度名を呼ぶことは、聖書の中でしばしば見られ、神からの重大な告知があるときの特徴だとされます。確かにこのときも、重大な告知であることには間違いありません。それにしても、なぜイエスは「サウル」と呼び、ルカは途中から「サウロ」から「パウロ」に変えたのでしょうか。
もちろん、これは世界中の研究者が研究を重ねてきている問題であり、私なんぞが解答を示すなどということができるわけではありません。ここから先は、ある程度の根拠を基に、私の想像の理解が含まれている、としてお読みくだされば幸いです。
サウルというのが元の名であろうと思われます。ダビデが王となる前の、イスラエル初代の王の名サウルを、ユダヤ人が子どもの名として付けることは、想像に難くありません。ヘブル語の響きに似せると「シャ(ー)ウール」のようだったと思われます。これをメッセージでは、「シェオール」(黄泉・地獄・死の国)の読み替え(ヘブル語は母音を替えると別の語になる)によって意味を重ねて説明していました。意味深い釈義でした。本来サウル王の名は、母音のほかは綴りが一致している、神を「シャーオール(尋ね求める)」意味で付けられたものと思われますが、サウル王とパウロとは、どちらもベニヤミン族という点でも一致しており、サウルの失敗をパウロが回復していくストーリーが、ここには隠されているのかもしれません。
ところが新約聖書は、ギリシア語で記されました。ルカはこれを、ギリシア語で筆記しなければなりませんでした。私たちも、英語の発音を日本語のカタカナで表記するときに、現地の発音の通りに記すことは不可能であることを覚えます。そこでルカはこれを「サウロス」と綴りました。語尾に「os」が付くのは、ギリシア語で男性単数主格、辞書の見出しとなると形です。ギリシア語には日本語の「助詞」がありません。英語にもありませんが、英語は前置詞を用いたり、語順の規則を作ることで「に」や「を」のニュアンスと伝えるようになりました。ギリシア語は「に」や「を」の語はありませんが、語順を自由に入れ替えて用いることができる方法として、格変化を多様に用いました。「os」の代わりに「ou」とか「on」を用いることでそれを表します。このとき、変化しない部分を語幹といい、日本語ではしばしば、この語幹の部分を取り出してカタカナ表記にしています。「イエス」というのは辞書見出しでは「イエースース」のようになります。因みに英語の「ジーザス」が原語なのではありません。英米人の「訛った」発音では、「ジーザス」としか発音できないためであり、日本語のほうがよほど元のギリシア語に近いものです。英語が本当だと勘違いする人が偶にいるので、注意してください。
さて、このようにして「サウロス」の語幹として無難な変化しない部分を取り出すと「サウロ」がよいと考えられたのでしょう。「シャ」が「サ」になったのは、ギリシア語表記にしたときに、「シャ」という音や文字がなかったからです。英語でも「キャット」というとき、母音の「ア」は「エ」との中間を無理やり「ア」にしてしまいましたが、それと同様です。
サウルという語の響きが、「呼ばれた者」のような意味があるそうです。預言者サムエルを通じて王として呼び出されたサウルでしたが、パウロも当初、あなたはまたとない選びの器だという意味で呼び出されたことには違いありません。それがよりギリシア文化圏で親しみやすいような響きをもつものとして、つまり「サウロ(シャウール)」では明らかにユダヤ人だなと思われるのに対して、異邦人世界でも対等に交わることのできる人物として印象づける、ギリシア的な響きを有する「パウロ」を用いることになって、パウロは専ら異邦人への宣教に励むこととなっていきます。パウロには「小さい者」という意味の響きがあるそうです。決して小さな働きをしたに過ぎないわけではないのに、私たちはその謙虚な姿勢を改めて思う気持ちにさせられます。巨大な「小錦」とはまた違うかもしれませんが。
ところで最後に、サウロとルカが記したあのダマスコ途上での出会いの中で、そしてまたその時のことを回想して語る時に、「サウル、サウル」とルカが記したのはどうしてなのでしょう。ここはギリシア語で読んでも「サウール、サウール」となります。つまり、ヘブル語の「シャ」がどうしても表せずに「サ」となっただけで、ヘブル語の「シャウール」を精一杯努力してギリシア語で「サウール」にしたものと思われます。つまり、どうしてもここは、ヘブル語だったのだ、と示したかったわけです。そしてパウロが人前で語るときにも、ヘブル語を用いたのだ、と伝えたい一心であったということになります。
パウロは、幼い頃から、家族に、そして特に母親に、「シャウール」と呼ばれたことでしょう。一人前になり、大人としての顔をもつようになってのものではなく、いわば生まれたときからの、生の自分に対して、親しげに語る声として、「シャウール」があったことは間違いないでしょう。イエスは、そんな親しみをこめて、そして元来のパウロの魂に呼びかけるような言葉として、本来の自分というものに届くような呼び方として、「シャウール」と呼びかけたのかもしれません。
ちなみに、そのサウロを拾うように神に呼ばれて迎えに行ったアナニヤも、「兄弟サウル」(9:17)と呼びかけています。アナニヤも主から声をかけられ特別な使命を受けて、「サウロという名の」(9:11)人物を尋ねよと命じられたにしても、ヘブル語で親しく「サウル(シャウール)」と呼びかけたのでした。イエスが呼びかけた同じ心で、サウロに「サウル」と呼びかけたのでした。アナニヤの、ファインプレーではないでしょうか。