過ぎゆく夏

2018年8月17日

夏は、祭りが似合います。暑さの中、活動が鈍るから、活気を与えるため、といった合理的な説明があるとします。でも、祭りは政(まつりごと)でもあるし、同時に宗教的祭儀でもありました。恐らく基本は、盂蘭盆会、つまりお盆という、祖先の霊云々といった宗教観にあるのではないでしょうか。
 
旧暦の7月ですから、正確に言うと決して「一ヶ月遅れ」という訳ではないのですが、便宜上同じ日付を以て、一月遅れを以て8月にお盆という習慣になっています。不思議な調整ではあります。
 
折しも太平洋戦争末期がこの8月にあたりました。本土での原子爆弾投下が8月に集中し、またポツダム宣言受諾が14日に決定されるなど、8月に鎮魂の意義をこめるようになったことも、いわば自然な成り行きでした。
 
夏は祭りが似合います。京は、7月の祇園祭に夏が始まり、8月の送り火に夏を送ります。盆地である上にいまはアスファルトの街なかは、灼熱の都市となり、日陰で計る気象庁発表の「気温」ではなく実質の体感温度は、四条大橋ではその数度上を表示してあるビルを見上げてはため息をつくのが通例でした。
 
その京で暮らしていた、『徒然草』の兼好法師は、冬は我慢できるが夏はたまらん、と嘆いていました。京の夏は、鴨川べりの高床の座敷が「納涼」と呼ばれるほど、過酷な暑さに耐えていたものでしょう。近年それがますます高温になってきたことは間違いありません。
 
8月を一週間残すとき、地蔵盆が展開し、去りゆく夏を惜しむことになりますが、近年は少子化のため、この風習も果たしてどうなるか、危ぶまれています。同じ日、化野念仏寺では万とも呼ばれる蝋燭が灯り、行き倒れの人を集め弔った昔人の心をいまに受け継ぎます。夏はこれで本当に逝くことになります。
 
実際はまだ暑さが続くのですが、古から、次の季節を感じることで、気持ちだけでも秋を感じる気持ちになりました。
 
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
 
そのためには、夏は終わったのだ、と、けじめをつけることが必要です。いつまでも「暑いね」と言い合うばかりでなく、秋の気配がするよ、と見つけ出す心が、秋を期待し、秋を感じる感覚を動かし始めます。
 
夏は祭りが似合います。夏はもうこれ以上は続かないのだよ、という気持ちを確認しようとして、また、かつての死者たちによる呪縛から解き放たれるためにも、未来を妨げようとする力を振り払うかのように、夏は祭りの声を挙げていきます。
 
まとわりつく季節を振り払う祭りが、この時期に続きます。ただ、水に流すかのように、それが本当にできるのかどうか、それは実のところ、問わなければならないかもしれません。
 
人の世の夏も、やがて終わりがきます。その中で、目にまだはっきりと見えるわけではないにしろ、風の音――霊の示すしるし――に目を醒まされた者たちは、夏の終わりをいち早く感じ、告げるように、要請されているように、思わされてならないのです。



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