8月15日であってはならない
2018年8月15日
やっぱり私には合点がいかない。天皇制に反対したり、戦争を正しく捉えようと声を大にして叫ぶクリスチャンの多くが、「8月15日」を「終戦(敗戦と呼ぼうが同じこと)の日」と信じこんでいること。このこと自体がすでに、天皇をすべての中心に置こうとする意図を底流にもつ、戦後1963年の自民党による閣議決定を安易に受け容れていることになっていると思うのですが、これに気づかないばかりか、こうしたことに関心すら抱かないということに、合点がいかないのです。
つまりは、天皇という祭司の宣言を聞くことで終わりが告げられたとする、天皇中心、また自分中心の論理に、まんまとのせられている中で、あれこれ批評を語っても、掌の上で転がされているだけだ、ということです。
8月15日を終戦としているのは、その時に解放されたとする韓国・北朝鮮などで、ミズーリ上で降伏文書が調印された「V-J Day」なる9月2日が世界の多くの国の定めている終戦のようです。あるいはその翌日の祝賀会を基とするソビエト連邦は特殊でしょうか。
日本では戦後しばらく、14日に戦争は終わったとする理解が世間一般に拡がっていたようですが、政府主催の全国戦没者追悼式を8月15日に決めたことで、いつの間にか15日だというふうに、私たちは思い込まされてきたのでした。これは、いわゆる「お盆」とも重なり、英霊のイメージと重ならせることにも役立ちます。もちろん、天皇中心の祭儀であるというイメージをも、既成事実にします。
これをさらに、高校野球(甲子園大会)を、新種の盆踊りであるとまで論じた佐藤卓己氏の著書をどう読むかは個人の自由ですが、『資料で読む世界の8月15日』は客観的資料で埋めつくされており、反戦や天皇制について述べる人は、一度は目を通しておかなければならないと私は考えています。ほかにも、「日本人だけが8月15日を「終戦日」とする謎」「「終戦記念日」は8月15日でよいのか?」「「8月15日=終戦」なぜ定着?法的に別の候補日も 玉音放送の存在」といったネット記事もありますが、短い記事なので深く掘り下げられていないのが残念です。
15日に、何かしら抵抗の声を挙げる方々、ぜひ立ち止まってお考えくださいますように。