独善の組織の道具と化す前に
2018年8月7日
聖書のこの句の意味は何でしょう。それは、○○○ということです。
時折、このようなタイプの投稿を(FBに限らず)目にします。私はその度に不愉快になります。その人が自分で、聖書からこのような光を投げかけられた、それを受け止めて自分は神に生かされて歩むようになりました、それならよいのです。また、聖書から自分はこのような声を聞いた、皆さんにもその体験をお話しさせてください、それならよいのです。けれども、自分に理解できたその意味を、聖書はこのように書いてあると客観的な事実のように示し、その他の読み方は間違っています、というふうに持ち出してくると、不愉快千万です。偶にやってしまうことはあるでしょうが、これが繰り返されるとなると、少なくとも、その人の言うことを私は信用しないことにします。この人は信用できない人だ、というレッテルを貼らせて戴きます。
聖書から自分がチャレンジを受け、自分がどう変えられたか、変わったか。私たちは基本的に、この「証し」しかすることができないように思えてなりません。あるいは、神の言葉を取り次ぐとなると、その「証し」が幾分普遍性を帯びてくるようになります。が、それとて、説教者の一種の「証し」と言えるものではないか、とも考えます。ただ自ら直接体験したことがないことにおいても、神学的な議論を学んだ中で、あるいは聖書の原語や文化において推察できることについて、ときに広く、ときに深い見識を伴って語ることは説教において当然あると思われます。その背後に神を指し示すような語り方を以て、自ら会衆のひとりでありつつ、会衆に向けて語るという、そこだけ聞くとアクロバット的な営みをなすように、説教者は動かされているようなものでしょう。
聖書のこの句の意味はこれが正解です、と口を揃えて同じことだけを言う複数の方々。これはもう、一定の教団の言いなりに動かされている、いわゆる「洗脳」の部類に入っている、というのが現代世界での一般的な見解です。もちろん、教会や教団の信仰告白というものはあります。カテキズムは、教義について定まった見解を皆が口を揃えて言うためのものである点、間違いないでしょう。けれども、その信仰箇条からつながっているそれぞれの人の人生には、それぞれの仕方での生かされ方というものがあるものです。殊に現代においては、カルトと呼ばれるようなはたらきによって、政治的な目的あるいは宗教的な錯覚の中で、他の見解を許さないような統率のことを、信仰と勘違いするケースが多々発生しています。そのリーダーたちすら気づいていないこともありますが、人を利用するために都合のよい策略です。しかしそれでは、カントの道徳にすら劣ります。人を手段として用いることがない、というのが人間の人間たる所以だと言いましたから、人間精神にももとることになりましょう。
ひとりよがりというのはよくありません。しかし、世の中の人がすべて自分の敵になり、誰ひとり自分のような聖書の読み方をしなくなったとしても、それでもあなたの出会った神はあなたに言葉をその意味で投げかけてきて、生かしてくださったのかどうか、そう問うてみることには意味があると思っています。そのとき、他人が違う読み方をしていることを批判せよ、というわけではありません。自分はそれにより生かされたし、神と一対一の関係の中での出来事であった、という揺るぎない確信が大切であるわけです。
教会という共同体は、そうした孤独な神との差し向かいを経験した者たちだからこそ分かり合える、共通の相手を愛する人々の連帯となることでしょう。だって、ある歌手のファンが、皆異口同音に、その歌手を好きな理由や好きなところを斉唱していたら、気持ち悪いでしょう?