私たち教会が誠実であるために

2018年7月30日

ここのところ、人間としての愛のなさに、自己嫌悪に陥っているのですが、そんな中で、大きな愛に包まれて支えられている――神の愛はある意味で当たり前ですが、この場合はひとです――ことをひしひしと感じると、いっそう自分のダメさ加減に辟易しますが、しかし励まされます。愛されているというのは、ひとを生かすものなのだと改めて教えられます。
 
さて、そんな愛に包まれた者の口からまた刃が出るというのは忍びない話ですが、これもまた自分自身へ突きつけられている諸刃の剣として、告げてみたいと思います。
 
それはたとえば、こういう言明に現れてくるものでした。「同性愛者が聖書では悪く書かれています。しかし私たち現代の教会では、こうした人を理解し助けるという側に立っています。」
 
それはそれでいい。けれど、それだけでよいのでしょうか。
 
近年の主要な社会の動きに合わせて、よい子を演じている、とまでは申しません。しかし、この「私たち」はどこまでを含むのでしょうか。昔同性愛者(とだけ言うのも語弊があるのですが、定義を求めるとさらに冗長になりますので、とりあえずこの語を使います)を迫害していたキリスト教会は、「私たち」とは違うものであって、「私たち」は彼らを理解している、そう言ってしまうことに、私は抵抗を覚えます。
 
殊更に例示することは、何かと当事者や関係者に不快を覚えさせてしまうことを鑑み、ここでは控えます。が、あの過ちを犯したキリスト教会は私たちとは違っていて、私たちはそんな悪には反対なのです、と言い切ることに、実は最も危険なものが潜んでいないでしょうか。いまの社会通念から悪と見なすものも、かつては善いことだとしていたから起こしていたはずです。誰も、私たちは悪いことをするのだ、という前提で行動はしないからです。「俺たちは悪の組織だ」と宣言するのは、勧善懲悪の時代劇か子ども向けの分かりやすいアクションものくらいのもので、どの争いも、互いが自らを正義と見なしてのぶつかりあいであることが今や明らかになっています。かつて迫害していた者たちも、それを正義と考えていたからこそやっていたのです。これらは悪魔だ、悪魔をやっつけるのだ、と神の業をなすものとしてやっていたはずです。だったら、現在の私たちにも、そのようにしている可能性がないとは言えないわけで、それを、私たちはすべての悪に反対します、と宣言してしまうならば、私たちは自分で自分を正義だと見なしています、ということで、かつての失敗と同じことをやっているとは言えないでしょうか。少なくとも、これは間違っているかもしれない、という可能性を踏まえつつ行動していかないと、これは善です、と決めて行動することになると、かつての歴史と同じ轍を踏むことに必ずやなるとは考えられないでしょうか。
 
キリスト教思想が新しい思想を生みもします。そしてまた、その新しい思想が、キリスト教思想を動かすこともあります。キリスト教会は、つねに正義を心がけてきました。悪魔に立ち向かうべく、活動してきたのです。しかしその中には、いま私たちから見ればとんでもないこともしでかしてきた事実があります。いまもなお、口では理想を掲げながら、実際行動としては迫害をし正当化しているというケースも、心ある目で見渡せば必ず見つかります。恐らく宗教なり信仰なりに関わる者は誰も、自分が正しいと思うからこそ行動するのであるのですが、そのことと、自らの行動が正しいという事態とは、残念ながらイコールではありません。神は言葉と現実とを一致させるお方であるとしても、人間にはその力はないのです。
 
せめて、あの過ちを犯したキリスト教会の先人たちも含めたうえで、「私たち」と称する考え方をとりませんか。まさに聖書が、同性愛者や障害者を差別するために用いられ、キリスト教会とキリスト者がそうした人々を見下し、キリスト教会の権威が彼らを精神的に地獄へ落とし、時に実際の命を奪うようなことまでしていた――これが「私たち」なのだという意識を厚顔無恥にも忘れて正義の味方の顔をするような真似だけは、しないと誓いたいのです。
 
この痛みを経ずに、政府は戦争責任をどう考えているのか、などは言えません。そしてその責任は「私たち」にもあるのだという立場を抜きにしては、その問題は成り立ちません。戦争を賛美していた教会の姿は、つい先頃までの私たちの国の教会の事実であり、いま世界各地にある教会の事実でもあると認めるならば、私たちの聖書の読み方や、聖書に基づく生き方は、大きく変化するのではないかと思います。また、そうした考え方をする教会の様子が広く知られるようになるとき、誠実を見出し、信頼を寄せる、潜在的な「キリスト者」が、やがて姿を現してくるのだと、私は信じているのです。



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