いろいろな状態の人がいても教会の仲間であるということは
2018年7月10日
教会に来ているから幸せなんだ、などと決めつけない。無理に笑顔をつくって、それでもなんとかそこに居場所を求めて来ている人がいるかもしれません。また、教会に来て共に礼拝に集っていても、受け方や感じ方が異なるであろうことは、前提としか言いようがないものです。同じように信仰をもっている、あるいは考えている、ということは期待できません。聖書の理解が違うから、あるいは聖書をそんなに読んでいないから、そうした理由で距離があると感じることがあるかもしれません。
そもそも、信仰をもってなどいない、極端に言うとそういう例もあります。本人が自分では信仰をもっているつもりではいるが、傍から見るとそうではなく、無邪気に周囲を破壊するようなことをするタイプの人も、私は知っています。いや、その人の信仰のことをとやかく言うべきではないでしょう。神がその人とどのように出会ったのかということについては、何も干渉などできようはずがありません。
私が映画スターとお近づきになれ、親しく話をしたとしましょう。しかし、また別の人とそのスターとがどのように友だちづきあいをしているか、それについては知る由もありません。自分の前で見せるその顔と別の顔を誰かに見せていたとしても、何も問題はないでしょう。神と他の人がどういう付き合いをしているかということについて、私が制限をかける権限などないわけです。
けれども、誰から見ても、そのスターなる人物には、ある共通したものが、誰にも感じられているだろう、とは思えます。人間でしたら敵もいるでしょうが、「優しい人ですよ」「寡黙な人」といった点は、ふつう大きく違いはしないのではないか、と。
イエス・キリストも、人によりいろいろな見え方や接し方があることでしょう。いつもなんでも「いいよ、いいよ」と甘い顔をしているようにしか考えていない人がいたら、どうかな、とは思いますが、そういうふうに扱ってもらえる時は、誰にもあるだろうし必要でしょう。しかしまた主は、時には厳しく叱責することもありましょう。イエス・キリストをリアルに捉えている人にとっては、いろいろな対話や呼びかけがあるはずです。もし、いつも同じようにこちらの都合のよいようにしか言ってこないとすれば、それは二次元の、自分のつくりあげたアイドル(偶像)に過ぎず、リアルな三次元ではないという危険性があることは、心得ておく必要があります。
一番大切なことは、イエス・キリストがあなたの信頼すべき「主」として、あなたと出会っているということ。「主」は「指導者」とか「リーダー」とか「父」とか「母」とか、どんなふうな言葉で呼ぶかはその人次第ですが、自分より上にある方のことです。頼るべき唯一の方、そして言葉がすべて現実となる力をもち、私の命を握っている方です。
そんなイエス・キリストと出会って、人格的な交わりさえ持っているならば――そのときの対話が祈りにほかならないのですから――、その方を信頼しようよ、と互いに支え合うような仲間がいる、共にその神の前に出る、時に辛い心の人や不安を抱えたままの人がいても、共にいる神の前に立ちつつ、神が自分にしてくださったことを、仲間に向けてもできるだけしてみよう、という勇気を与えられるようでありたいものです。心で祈れば、神を通じて、いつだってつながっているネットワークに、参加することができますし。