平均のトリック
2018年7月2日
今日が一年365日のちょうど中央の日です。奇数数並ぶものの中央は、(数の個数+1)÷2 番目です。ちょうどこの頃は「半夏生(はんげしょう)」と呼ばれる、農業上の重要な区切りとなります。
中央値という代表値があります。私たちは、集団の数値の代表値としては、平均値をすぐに思い浮かべますが、それを以て基準とすることは、時に情報操作に騙されることとなります。
たとえばここに10人の国民がいて、1人の年間所得が9900万円、他の9人のうち4人が25万円、他の5人が皆0円であるとします。この10人の所得の平均は、1000万円と計算されます。それで、この国民の平均所得は1000万円である、という通知がありましたら、なるほど、と納得できるでしょうか。それはあまりにも実感とずれている数字だと考えられることでしょう。
(政治という場に限らず)政治的に数値が示されるとき、このようなトリックに騙されてはいけません。この場合は、たとえば中央値を取ると、中央の人が5番目と6番目の人ですから、これら二人の平均(中央)の数字を採用します。25万円と0円が並びますから、12.5万円で、これは1人の大きな例外を作りはしますが、概ねそういうものかという感覚は持てるだろうと思われます。
最頻値という代表値もあります。最も度数の多いところを代表値とするのです。これはこの場合は0円となり、その数字をデータとする国民が最も多いことを現します。これは極端で奇妙ではありますが、この場合、それなりに納得できるデータであると言えるでしょう。
こうした求め方は、中学の数学でいまは誰もが学習します。たんに受験のためのテクニックというのでなく、世を生きる知恵として、その意味を感じ取ってもらえたら、と思います。
どこに基準を置くか、それは、政治的な恣意性を以て選ばれます。自らの主張したいことに合わせて都合のよいような計算方法を選び、それが基準だと示すならば、尤もらしく見えてしまうのです。つい最近も、働き方改革のために使われたデータが信用できないと報じられましたが、あれは単純に間違いというのではなく、基準のとり方が恣意的であったと見なしたほうが適しているのではないでしょうか。
教会は、どこに基準を置くとよいのでしょうか。多数決でよいでしょうか。単純平均がよいでしょうか。
なんでもできる優秀な人間が基準であっては、たまりません。むしろ、弱さをもつ人間という人間観を軸として、弱い人間こそ基本線だとすべきだ、と言う人が多いのではないでしょうか。けれども、実際の教会の運営はどうなっていますか。強い立場の人が、いつの間にか基準となって、それが当たり前ということに、なってはいないでしょうか。
あるいは、弱い立場の人のことは気になるけれども、財政上の理由で、少数の人のために負担を強いられることは無理だ、という結論で動く、ということになっているかもしれません。
それは、ありきたりの世の組織と同じです。教会は、世の営利団体と同じ基準で動くべきではない、と頭では分かっていたとしても、結局そうなってしまっていることを是としていることはないでしょうか。見た目の華麗さを優先しないと次の顧客が得られないとして、弱者や少数者の立場を守り支えるような営みのために予算を使うのは、効率的でない、という論理を、つい使ってはいないでしょうか。
だって現実には……との声を返すことがあるかもしれません。世や現実を求めるのが教会であるなら、そしてそうしなければ動きが取れなくなるようなものが教会であるとすれば、いったい教会とは何なのでしょうか。
イエスだったらどうしたか。それはたぶん、聖書を知るならば明らかです。しかし、新約聖書の中でも、イエスの時代から離れて書かれたり編集されたりした文書の中では、教会組織を前提として統率を試みたり、異分子の排除やその攻撃から守るという目的を以てアピールしたりすることが目立つようになります。役職名とその立場へのアドバイスが、まるで今でいう社則なるものを、書簡という形で記録したかのように、文書化されていきました。
政府を批判するのは、ある意味で簡単なことです。しかし、それがただのガス抜きとして利用されているだけである可能性を案じるほかに、教会組織が、その批判先の政府と同じ論理で動いていたとしたら、自分を顧みず他者を非難するばかりの、聖書にも書かれているような或る姿として自身を暴露していることになってしまいます。それに気づかなければ、イエスにとことん蹴散らされるだけの結果となってしまいかねません。自らの善行に酔いしれているだけの、聖書に描かれているあるグループが自身の姿である、ということにもなりかねません。しかも、他の存在を批判することが快感になっていくと、どんどんそのぬかるみに陥り、自分では気がつかなくなってしまうのが常なのです。
そして、これは個人レベルでも言えることである、としみじみ思います。私は日々、そのように神から自分の姿を突きつけられつつ、愚かな自らの姿にため息をつきながら、それでも立ち上がらせて戴きつつ、今日もまた空を見上げています。さて、教会の基準は、私のひとを見る標準は、どういう趣旨で定めるものか、また何を標準としているのかと意識し直しながら、笑顔を与えられて歩むのです。