これからの「せい」の話をしよう

2018年6月30日

クィア神学とは何か――衝撃的な特集タイトルで人目を惹いた「福音と世界」7月号。これを「神学」として取り出そうとすると、また意見の相違が出てくるなどありそうで、いくつかの論文原稿の中でも多様な感覚を見るような気がしました。
 
そもそもクィアていうのはQueerをカナ表記したもので、奇妙な・風変わりな、といった意味に由来するといい、かつて同性愛者に対する差別用語でありました。この辺り、例によってプロテスタントや印象派、そもそもクリスチャンも同様の事情があったという歴史のならわしに沿うように、今度は積極的な意味で当事者たちが捉え始めた昨今の動きから、注目すべきものとして扱われるようになりました。
 
その歴史はまだ30年にも満たないと言われています。たとえばLGBTとして最近注目されているものについても、この範疇に関わるはずですが、それだけだろうか、ということで定義にも揺れがあったり、範囲が見直されたりしている事情があるのが実情のようです。私も専門的に追いかけたことがないので、受け売りであるのが正直なところです。
 
さて、そうした特集の中で、神学的議論もさることながら、実際の教会生活や教会のルールとしてどう捉えていくのか、という、ある意味でひじょうに分かりやすい、そして現実に急がれている問題を正面から扱ったものがありました。
 
■これからの「せい」の話をしよう
  生なる、性なる、省なるかな
 
執筆者は、川江友二さん。大阪の教会の、まだ30歳代と若い牧師です。学生時代からHIV陽性者を地域で支えるNPO法人に関わっていました。その時の体験を基に、イエスの姿をリアルに感じます。教会は「ひとりの人間として尊重する」ことが、本当にはできていないことを覚ります。
 
大阪地区での、性差別問題小委員会にて、こうした点について検討を続けます。
 1. 教会員の敬称に「兄」「姉」を使っている
 2. 「彼氏」「彼女」はいるの? と言ったことがある
 3. 「男なら泣くな」「女の子らしくしろ」と言ったことがある
 4. 教会の台所には女性しかいない
 5. 教会役員は男性が多い
といったチェック項目を関係者に問いかけたといいます。
 
こうした点に問題性を感じない方は、もしかすると某政党が盛んに口走っているような状況と同じ世界にいるのだと自覚したほうがよい、と私などは思うのですが、ではどう問題があるのか、ということは、すみませんが本論をお読みくださるようお願い致します。
 
大切なことは、川江牧師が、自分の教会に四年前に赴任してから、これらの問題を現実に教会員と話し合い、動きを示してきたという点です。そして学習会を始めたところ、実は、とカミングアウトした教会員がいて、聞く人々も涙を流していたということです。そして、これは「命」と「尊厳」に関わる重大事なのだと説き、また継続的に学びをしていったのだそうです。
 
その際、逆にこうした相手を対象化することで、自分はマジョリティであるという安心感を得るようなことが生じていないか、それがまた壁となっていないか、そういう点にまで顧慮します。まことにその通りだと私も思います。
 
また、こうした背後に、教会に暗黙のうちに「家族主義」のようなものが控えているのではないか、という反省ももたらされたといいます。そして、自分が理解しやすいように相手をカテゴライズして安心しがちな人間の心理についても気づかされます。人を属性で判断して、自分の理解を安心させようともする、そうした人間の傾向性をきちんと見つめます。
 
実は決して当然ではないのに、当然ではないか、と言いたげな道徳や考え方を押しつけることで、当事者に苦痛をもたらし、追い詰めてきた私たち。そのことに、まだ気づかないでいるという実情から、まず気づく段階へ。私たちは問われています。そう、結婚式で必ず3人以上子どもを産めとスピーチしたり、子どもを産まないほうが幸せだなどと勝手なことをぬかす者がいると信念を述べたりする政治家がいますが、これを批判する資格が、私たち教会のメンバーにあるのかどうか、が問われているということです。
 
誰もが「わたしらしく」生きられて、その生き方が祝福される神の国は実現できる、わたしはそう固く信じている。――このように、筆者は結んでいますが、私がどきりとしたのは、その少し前に記されていた、あるクリスチャンの友人の言葉でした。私はそちらで、ここを結びたいと思います。
 
「教会は結婚を盛大に祝福するけど、一人で生きる人の祝福はしてくれないよね」 「誕生、幼児、成人、結婚、敬老祝福はあるのに、まるで一人で生きる人は祝福されないみたい」



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