理性の法廷
2018年6月24日
読みたかったけれども高価だったので手が出せず、気にしていましたら古書で買える価格になっていたので購入を果たす。こんなことが度々ありますが、今回の『時を刻んだ説教』もそのひとつ。値が落ちた上に美本が届き、うれしく私がマーカーを引きました。
クリュソストモスからドロテー・ゼレまで、16人が選ばれ、一人一説教が掲載されています。誰もが同じ形式で紹介されていき、落ち着いて読めたのですが、その最後を飾る「ドロテー・ゼレ」に私は妙に惹かれました。ドイツの女性説教者ですが、いわゆる牧師職ではありません。特別なプログラムの時にしか説教はしていないそうですが、その説教に魅力を覚えました。
その解説が、ミヒェアル・ハイメルによって加えられています。「彼女(ドロテー・ゼレ)にとって問題なのは、概念的に正確な学問言語ではなくて、実存的な祈りの言語である……。詩の言語で祈りを構成し、聖書本文を今日の生と関わらせる。」と、これだけを引用しても読まれる方にはピンとこないことと思いますが、「私は既にヤコブなのです」と最初のほうで強調するその説教から私の感じたことが、より的確に解説してあったと感じました。
世に災害や、悲惨な出来事が起こります。その度に心優しい人は叫びます。神がいるならばどうしてこのような酷いことを許すのか、と。それは時に、神などいない、と言いたいがために叫ばれます。またある時には、どうしても神はいると思うし神が気になるのだけれども、自分は納得ができない、という気持ちをぶつけるために叫ばれます。
少なくとも、そんな神とはどんな神なのだ、と問いたくなる気持ちは、分からないわけではありません。でも私は、その問いはその通りだ、と全面的に賛同もできないと思っていました。どうしてだろう。自分の中で、理論が構築されているわけでもないのに、そして論じよと言われても困るというのに。そんな思いで過ごしてきました。
神がそんな災いを認めることができるのは何故か。神が全能であるならば、そんなことを起こさないこともできるはずではないか。その訴えも、なるほどそうなのですし、犠牲になった方やその遺族にとっては、そうでないなどと冷たいことを口にするつもりは毛頭ありません。それでも、本書の解説の中に、そのような時は「人間理性の法廷に出て責任を取るべきだという要求が高まる」のだ、とあるのを見て、私の中の小さな扉を開ける鍵が見出されたような気がしました。
もちろん、かつての弁神論を展開するのがよいとは思いません。人間に、少なくともただのこの私に、そのような真似ができるはずがないと理解していますから、何かと神のなすことに理由をつけて説明しようだなどとは考えていません。時に、善良な牧師は、聖書から引いて神は実は……と説明を施そうとするのですが、それは行き詰まると私は端から「分からない」を決め込むのがせいぜいのところです。それは不誠実なのかもしれません。しかし、それしかできないのも確かなのだ、という思いに嘘はありません。
人間理性の法廷で神を裁こうとしている。これが人間が近代においてやろうとしてきたことだった、とゼレは感じているというのです。彼女は時に神秘主義的な側面をもっているらしいということなので、理詰めで捉える方には信用がおけない存在であるかもしれませんが、私も多分にその傾向があると思います。それを私の言葉で言い切ってしまうことはまだまだまできないのですが、もしかするとずっとこのまま言い切れないでいるのかもしれません。その時は、またそれでもよいのではないか、とも思います。
いずれにしても、私にとりこの問題は理を通して語れず、外からは卑怯なままに傍観しているだけであるように見えるかもしれませんが、逆に、理で語ればひとが生きるのかどうか、というあたりも視野に入れながら、あたりを照らす光に気づくだけの魂で、いましばらく歩ませて戴きたいと願う次第です。