信頼
2018年6月20日
テロの目的は、もちろん殺傷そのものにもあるのでしょうが、その名が恐怖を意味するごとく、人々に「恐怖」を与えることが大きいものと思われます。さらに言えば、「不信」を世に蔓延させることが第一だとも言えないでしょうか。人々が互いに信頼することができなくなるようにする。どうしてか。そうすると、社会が崩壊していくからです。信頼関係がなければ、あらゆる制度も習慣も、もちろん社会機構も、成立できなくなるのです。
子どもを狙う犯罪がひとつ、あるいはふたつ報道される。その恐怖が、「ひとと挨拶をしてはいけません」という事態に進むとすれば、まさにその、信頼関係を崩壊させていく道筋を辿ろうとしているわけで、その犯罪者がそれを狙ったわけではなかったにしても、私たちの社会の崩壊を早めることになるのではないでしょうか。
もちろん、人の善性をのほほんと信じるのも考えものです。だから、近年ある種の詐欺がまかり通るようになっています。自分は大丈夫、と思う人こそ危ない、とも言われますので、なかなか巧妙です。騙されるほうが騙すよりましだ、というのは、また別の場面で思い出したい考えでしょう。
人々の愛が冷える。黙示録の予告は、時にしみじみと考えさせられます。愛というと、また分かりにくい場合がありますが、互いに信頼できなくなる、と考えると、少し具体的になるかもしれません。国と国との交渉のように、権謀術数の必要な場面もあるでしょうが、そこにも何らかの信頼がないとできません。米朝の間にも互いの思惑の食い違いがあるかもしれませんが、少なくとも対話をするというだけの信頼はあったことになります。
信頼関係が壊れた場合に、対話をしよう、ともちかけるほうは、えてして優位な側にあるほうであって、対話をすることにより相手を説得したり自分の傘下におさめようとしたりする意図があることでしょう。対話をすることで不利になることが明瞭な場合には、弱い側は対話に出ることができにくいのです。対話が成立する場そのものが、一定の信頼を前提しています。そうだからこそ、パワーハラスメントという概念があるのですが、強い側はこの構造に気づかないから、それは解決しません。それどころか、強い側は、こんなに自分は下手に出ているのだから、というくらいの似非謙遜に陥る場合が多く、よけいに始末に負えません。
信頼の概念と、良心の概念とを結びつける考え方もあるでしょう。良心は、信頼が必要であることを知っています。疑うことは悪いかな、というためらいがどこかにあるため、信頼してはならない場面で信頼してしまうわけです。そこに詐欺がつけこみ、また邪悪な営みが入り込んできます。難しい判断となります。
キリスト教はまた、信頼の背後に、赦しという考え方を徳のように忍ばせます。そこで、これまた強い側がよくもちかけるのですが、クリスチャンだからおまえは俺を赦すのが当然だよな、という前提で近づくのです。赦せないと応えるならば、クリスチャンとして失格のような気がして、弱い側は赦さないわけにはゆきませんが、それを最初からあてにしてくるのです。こうしたことの中に、信頼を崩すものが潜んでいることに、気づくタイプの人と気づかないタイプの人がいます。
一概には言えないのですが、こうして「信頼」という言葉でくどくど申し上げてきたことは、実のところ、教会のエッセンスであるように言ってよいのではないかと私は捉えています。教会の役員なり牧師なりが、自らこの「信頼」を失うタイプ、つまり先の気づかないタイプであるとき、そこに信頼関係が、実は崩れていることが把握できないという事態が生じます。弱い立場にある信徒のほうが、これを正確に察知している、そこにあるずれが、教会を根底から突き崩す要因となりえるわけです。
ご承知のとおり、同じギリシア語が、新約聖書の中では「信頼」とも「信仰」とも訳されています。神を、の方向なので「仰」を付けますが、これを神が人間を、の方向だと理解するならばそこに「仰」は付けられません。また人間同士の場合も付けないでしょう。そこでより一般性の強い「信」の一語で表現するという提案もあります。教会から「信」がなくなっていくということは、教会が教会でなくなってしまうということを意味することになります。人から神への「信」、人と人との「信」、その背景にあるであろう、神から人への「信」、こうしたものが「信は一つ」となることが、聖書の手紙が求めている姿であるような気がしてなりません。
※ 毎年この日は気が重いのですが、酷い殺され方をした15年前のこの日のK君とその一家。直接知るだけに、何年経っても遠ざかることのない出来事です。三人の中国人の新入した勝手口は開いていたのでしょうか。あらゆる信頼を無に帰するような犯行が、最近のニュースを賑わわせています。私たちは、悩みます。