『あのとき、そこに きみがいた。』

2018年6月18日

ポプラ社からこの春出版された、やじまますみさんの絵本。「2016年4月 熊本地震の現場から」というサブタイトルがついています。色鉛筆と水彩で描いたような、やわらかな、しかしリアルな絵です。
 
各頁には、日付ないし時刻と、その時の様子を描く文章が淡々と綴られます。ひとの語る言葉が方言で生き生きとしています。とくに感情を表に出したり、訴えたりということはなく、事態を静かに物語る調子で語られていきます。
 
描かれている人々の口は、その殆どがきゅっと一文字に結ばれています。言葉を語ってはいても、口をきゅっと結んでいます。その唇が、何かを物語っているようです。忍耐なのか、不安なのか、それは読者が受け止めるべきものでしょう。
 
テーマがやがて現れます。「ビブ」です。スポーツ選手がかぶって着ることがあるチョッキ(?)のようなゼッケンのことです。ボランティアの中学生たちがつけているのです。物語はその後、中学生たちとは呼ばずに「きいろいビブたち」と称することで進められていきます。
 
  きいろいビブたちが……ごはんや水をはこぶ。
  きいろいビブたちも……バケツリレーのようにはこんでいる。
  きいろいビブたちがあたたかい救援食料をくばるのをてつだっている。
 
 ここまでは複数形ですが、この後単数形になります。
 
  きいろいビブが元気な声でおしえてくれる。
  きいろいビブが明るくふるまってくれるから。ちいさな希望をそこに感じるから。
  けれどもきいろいビブだってつらいのはいっしょ。
 
このとき、そこに個人がいることを強く意識させられます。もはや集団としてのビブたちではありません。一人ひとりが、その場にいて、自分という存在をもって、地震の恐怖とやるせなさを、被災者と同じように抱えながら、感じ、考え、行動しているのです。
 
そんなビブたちが、悪いことを考えさせるなにものかに打ち克って、勇気のことば、希望のことばを投げかけるようになります。ふたたび複数形になり、みんなの思いが輪になり、重なっていきます。
 
服の上に羽織ったビブは、ボランティア活動のうちに汚れていきます。洗濯しなければなりません。それはおそらく、洗われていく心を象徴しています。そして、洗濯の場に相応しい、シャボン玉が飛び交う。シャボン玉が、希望と勇気を連れて、あたり一面に拡がっていきます。広い空を、人々の思いで埋めつくすように。
 
絵本は、きいろいビブに感謝の意を伝えて、物語を閉じます。そのビブというのは、中学生の絵ではありません。ビブだけです。重なった数枚のビブが、人の心も重ねていることを表しているような気がしてなりません。中学生だけじゃない、読者も、この「ビブたち」の一人となるかのように。
 
作者は熊本在住の作家です。妻の故郷として引っ越してきて、18日目に地震に遭遇したのだそうです。大きな被害は免れたものの、惨状を目の当たりにします。そんな中で、目の前に起こったことを書き留めなければとの思いで、この絵本の完成へとつながりました。中学生たちのきいろいビブを一生忘れないと作者は告げ、シャボン玉も実際に見た光景なのだといいます。
 
あのとき、きみはそこにいた。きいろいビブたちのことを言っているには違いないが、私は思います。あのとき、作者もそこにいたのだ、と。きっと、そこに居合わせるために、その場に導かれたのだ、と。そして、読者たる私たちも、この絵本が生まれたことによって、同じように、そこにいるのだと教えられているに違いありません。促されているに違いありません。そこに、私もいたのだ、と感じることがなければ、私たちの心は、ビブを知ったことにはならないでしょう。
 
クリスチャンは、「キリストを着る」という表現を知っています。私たちは、ビブのように、キリストを着ているのかもしれなません。それは簡単には脱げないはずですが、キリストが私たちの汚れを洗濯してくれる点も、似ていると言えます。キリストにある者は、「ビブたち」の一人として、勇気と希望を懐きつつ、ここにいるのです。



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