見る

2018年6月17日

聖書については「きく」ことがたいへん重視されていると思いますが、「みる」ことも、それに劣らず重要です。新約聖書の日本語訳で省略されることが多いので残念ですが、原文には「見よ」と注意を促すフレーズが実にたくさんあります。
 
使徒言行録3:1-6に注目します。ここの訳にも幾度か「見る」という日本語の動詞が見られます。
 
3:3 (足の不自由な男)はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを【見】て、施しを乞うた。
 
3:4 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと【見】て、「わたしたちを【見】なさい」と言った。
 
3:5 その男が、何かもらえると思って二人を【見】つめていると、
 
日本語だと気づきにくいのですが、これら4つの「見る」は、すべてギリシア語では違う語で表されています。3:3は「ホラオー」、3:4は「アテニゾー」と「ブレポー」、そして3:5はさすがに邦訳も訳し分けていますが、「エペコー」となっているのです。こうした傾向は英語にもあり、幾種類もの「見る」動詞がありますが、ここまで連続して異なるとなると、同じ「見」で訳してしまった日本語がいかにも頼りなく思えてしまいます。
 
順にまずこれらの語のもつ感覚を押さえていきましょう。
 
3:3「ホラオー」
 一般的な「見る」で、単に見えることを含みつつも、理解したり、経験したりすることを表す場合もあります。この語の活用した形から、「イデア」「エイドス」といった哲学用語も生まれました。姿や形を意味しますが、プラトンはイデアということで、個物から別に存在する見えない理想の形を考え、アリストテレスはエイドスと読んで、個物の見えるものとは不可分な形を理解しました。最初に挙げた聖書の「見よ」は、この動詞の命令形が使われています。
 
3:4「アテニゾー」
 「緊張した」というニュアンスを含み、一心に見つめること、凝視することを意味します。ルカが好み、特に使徒言行録には、全14回のうち10回も現れます。非常な驚きを感じた場合や、物事をよく調べて考えてつきとめようとする場合や、あやしいと思ったり、期待したり、睨んだりする、強い意味を含んでいます。つまり、そこには心も注ぎ込んでいるように受け止められるということです。
 
3:4「ブレポー」
 「見る」ことを表す一般的な語で、視力があれば見えるという程度のことから、じろじろ見ることや、感じたり認めたりすること、気づいたりよく考えたりと、非常に広いエリヤを満たすことのできる語です。
 
3:5「エペコー」
 「上に+持つ」のような構成からできている語で、ここでは心を向ける感じが強く出ています。ほかには、じっととどまる意味(使徒19:22)や、堅く握り守る意味(フィリピ2:16)ももっており、「上に+持つ」が滲み出ているように見受けられます。聖書でたぶん5回しか登場しない珍しい語です。
 
 
男がペトロとヨハネを見た(ホラオー)のは、いつも人を見るときと同じように、施しを求める目でした。一定の関心をもって見てはいますが、そこに信仰の思いはありませんでした。
 
しかし、ペトロはこの男をじっと見ます(アテニゾー)。強い眼差しです。もしペトロとヨハネの態度が、クリスチャンの模範であるとすれば、クリスチャンは、人を見るときに、心をこめてどうしたものかとよく考えて見つめることが必要であるということなのかもしれません。
 
そして、ペトロが男に向けて「私たちを見なさい(ブレポー)」と言ったときの「見る」は、ごく一般的な語でした。いきなり相手に、あれもこれも知れ、理解せよ、と求めたわけではありません。まずは目を向けてみよ、という程度にも聞こえます。但し、そこから何かに気づいてほしい、という思いも含まれていたのではないかと私は推測します。
 
もちろん男は、まだそこには気づきません。何か貰えるのではないかと待って、ペトロとヨハネを「見つめて」(エペコー)いました。相変わらずその状態に留まっていたということになるでしょうか。
 
この後、ペトロがイエス・キリストの名をもたらすことにより、事態は一変します(ここで「金や銀」と訳してありますが、原文は「銀金」の順です。ギリシア語はたいてい銀を先に出します)。男が立てるようになったのです。あたりは大騒ぎ。
 
3:9 民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを【見】た。
 
ここにあるのは「ホラオー」です。民衆もまた、この時にほんとうの意味を理解した訳ではありませんでした。神の出来事が心に刺さり、信を惹き起こすような目撃となったのではありませんでした。ただ、それは驚くべきことだということだけは、認識していました。
 
ところで、この男は「美しの門」にいました。どんな門だか知りませんが、美しいというのは恐らく視覚に基づくものだと思われます。「見る」の応酬の舞台は、見るに美しいという名の場所でした。しかし、同じ「見る」でも、その人の心ひとつで、ずいぶんと違った見方があるものです。私たちは、さて、どのように聖書の出来事を「見」ましょうか。



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