息子の音楽観
2018年6月6日
先月バプテスマを受けた息子は、自分のためにつくられた週報ボックスのことがうれしいと話しました。メンバーなのだということをしみじみと喜んでいる様子でした。もう教会に住みたいというほど、そこが自分の居るべきところだと思っています。
彼は中学生なのに、60年代からの音楽にやたら詳しく、いったい本当の歳はいくつなのだとからかわれるほど。小学生のときにギターを覚えたいと言ったあのときから比べると、技能も知識も、とんでもなく高いところにまで行ってしまいました。
うまく代弁できるかどうか分かりませんが、だいたい次のようなことを話してくれました。
たとえばギターでも、数十年弾きこなしてきた人と、始めて2年くらいの人がいたとする。当然経験の長い人のほうがうまいだろう。しかし、2年の人にしか作ったり弾いたりできないフレーズというのがあって、ベテランからは生まれないようなものをもっているということもある。だから音楽は面白い。確かに知識も技術もベテランはもっているから、若い者はそこから学ぶことはできる。しかし、生み出すものについては、若い者から出たものにもとてもよいものがある、ということがよくあるんだ。それぞれの良いものが出せるとよいのであって、それぞれの良さを聴いて楽しむあり方をすれぱいいと思う。だのにネット空間ではよく、やれ誰それの音楽は、と批判する声が蔓延している。音楽を楽しむのではなく、やたら批評すればいいと思っているかのようだ。あれは嫌いだ。音楽を愛する一人ひとりには、それぞれの役割があって、優れたところも至らないところも皆もっているわけで、その良いところを互いに認めて、良いものを生み出していくように互いに励ますような音楽のあり方をすればいいんじゃないか。あれがない、これがない、と批評するのは、音楽を楽しむことではないし、それでは若いミュージシャンも育たない。
私はもう、聞いていて、うれしくてくすぐったくて、たまりませんでした。私の書く文章をとくに読んでいるというわけでもないし、私が教えこんだこともない。けれど、私の考えるようなことを、自分の頭で考え、自分の心で感じ、そして自分の言葉で表現している息子のことを、誇らしく思えました。
これは、そのまま教会の、また信仰のあり方に相応しいとは言えないでしょうか。少なくとも私は、そんなふうにこれまでも思ってきたし、書き綴っています。彼は、そんな私の考え方あるいは生き方を、傍で感じとってきたのかもしれません。
教会のあり方、そしてまた、説教を受け止める信というもの、そうした場に重なるスピリットに、彼の信念は貫かれていると思いますし、キリストの教えにもひじょうに適っていると言えるのではないかと私は考えていました。