イエス・キリスト「の」信

2018年6月4日

聖書講座がありました。ある論述の中で「イエス・キリストの信」という表現の「属格」のはたらきについての違いが論拠として扱われていました。もちろんその場でも説明がなされましたが、私なりに思うところを形にしてみようと思いました。但しこれは、その論述の議論についてではなく、この表現に限定したエッセイであり、「属格」などの意味をご存じない方のための解説のつもりです。もちろん、素人の解説ですから、無知や誤解に基づく点はご指摘戴きたく存じます。
 
1.「イエス・キリストの信」の、日本語ならば「の」の形をとるギリシア語名詞の活用の形を「属格」といいます。日本語であれば、「名詞+助詞」となりそうな語の構成が、ギリシア語などの言語では、ひとつの名詞の語尾が変化することで表されるということで、名詞が「格変化」をすると言われます。ドイツ語ではこれが強く残っていますので、学ばれた方はその「2格」を「属格」と呼びます。英語だと「's」の形でそれが生き残っているとも言えます。

 この属格の解釈が問題でした。全く違うように読んで理解することが可能だといい、その理解次第では、神学的にも大きな差異となりうることになるため、それがどう違う理解ができるのか、ということを説明するために、聖書講座の中では具体例として「私の本」という表現が挙げられ、「私が書いた本」なのか「私について書いた本」なのかの解釈の違いに気づかせていました。しかしこれでは、主格のほうはよくても、目的格とはなっていないように見えます。「本」という、動詞と関係がない名詞であっては適切な説明とならず、「(〜を)信(じる)」のような目的語をとるような動詞に基づく名詞を考えているのだ、と少し聞くと多くの人は感じた可能性があります。が、実はこの「本」という日本語に囚われているとそうなるのであって、たとえば聖書でも、「聖書」と訳されている新約聖書の語は「書かれたもの」というように表されている場合が多く、日本語とは違い「書かれたもの」という、動詞「書く」に基づく名詞であったわけです。そこで、「私のことを書いたもの」という、目的格的属格の例に適うものと理解すべきものでした。
 
 さて、この「主格」は、いまはさしあたり大雑把に、「〜は・〜が」の形、としておきます。主語として働くという意味です。ドイツ語だと「1格」です。「目的格」は一般的には「対格」と呼ばれ、ドイツ語だと「4格」です。日本語の「〜を」に相当するとまずは了解しておくことにします。
 
 
2.日本語の「の」で、この属格問題をスタートします。つまり、さしあたり日本語訳の問題として扱います。

 日本語の「の」にはいろいろな用法があり、確かに曖昧なところがあります。まず、「の」は「が」のように主語を示すことがある、という点に注目します。そもそも古語ではざっくり言って、現代の「の」と「が」との逆転現象が起きていることが面白いところです。古語では「雨の降る」や「塞翁が馬」が一般的ですが、現代ではむしろ「雨が降る」「塞翁の馬」を基本とするでしょう。「雨の降る」が、主格的な「の」です。「雨が降る」と言い換えることができるように、主語を立てる時の使い方になっています。私「の」理解は、私「が」理解したことであり、敵「の」襲来は、敵「が」襲ってくることです。
 
 他方、日本語の「の」には、「を」と言い換えて説明できる場合もあります。荷物「の」運搬は荷物「を」運搬することです。過去「の」忘却は、過去「を」忘れることです。
 
 これらの違いは、私たちはたいていは文脈から当然のことのように区別できます。過去「が」忘却する、というのは、よほど詩的な世界でなければ発想しません。しかし、私「の」理解は、実は曖昧でした。「あなたによる私の理解」と言えば、私「を」理解している様子を意味するからです。これは「あなたの私の理解」と記しても同じことです。多少分かりづらい表現にはなりますが、「あなたが私を理解しているさま」のこととなります。
 
 同じ敵でも、「敵の恐怖」となると、敵「が」恐れることだと予想されますが、敵「を」恐れるようにも読めます。「見えない敵の恐怖」だと「を」でしょう。
 
 これが「男の選択」となると、この表現だけからは全く分かりません。男「が」何かを選ぶ様子なのか、女から男「を」選択する様子なのか、分かりません。これも文脈からは分かることになっているのですが、「男の選択には難しい事情が伴うものだ」などという一文では判断できないのです。
 
 これは日本語の「の」からの事例ですが、西欧語においても、この「属格」には同様の曖昧さが伴う事情は同じであると言われています。そして聖書でも数回現れるこの「イエス・キリストの信」という言葉においては、どちらの意味で読むかにより、内容が大きく変わってきてしまうという問題が指摘されているわけです。
 
 
3.ようやく本題に入ります。かの論述の中では、「イエス・キリストの信」には、「の」の部分を「イエス・キリストが信じること」と理解する主格的属格と、「イエス・キリストを信じること」と理解する目的格的属格とどちらに取るか、という問題が起こっていた、というようなことが言われていました。
 
 この理解の相違は、明らかに方向性の相違です。主格的属格解釈から「イエス・キリストが信じる」となれば、キリストが人間を信頼していることになりますし、キリストが人間に対して誠実を尽くすという方向を表していることになります。これによる救われるというのですから、こうなると、人間がどうであるかに関わらないと捉え得るため、たとえば万人救済の考えに傾いていくことができます。それに対して、目的格的属格から「イエス・キリストを信じる」となれば、私たちが通例考えているように、人間がキリストを信じること、信仰することを意味することになります。こうなると、人間がキリストを信じることで救われるということになり、逆に信じない者は救われない、という排他的に聞こえる教義が成立する根拠にもなっていくでしょう。また、中には、「信じる」というのは「行い」ではないのか、という疑問が生じるかもしれないし、逆にまた、ヤコブ書のように「行い」を重んじる描写を支持する道が拓けるのかもしれません。このように、この属格問題は、奥深くもなりますし、幅広く聖書の大きな理解の相違へと拡大していくことにも関係していると言えます。
 
 私がこの問題を意識したのは、田川建三氏の『新約聖書 訳と註』(2007)でした。ガラテヤ書2:16の註の箇所です。そこでは「目的格的属格」のことを「対格的属格」と呼んでいましたが、田川氏は、それは取れない、これは主格的属格である、と主張していました。掲げた理由の第一は、対格的属格になりうるのは、そのかかってくる名詞が、他動詞に由来する名詞でなければならない、というものでした。日本語でぼんやり言うと「〜を」の目的語をとるという、英語で理解したことでカバーできる内容です。しかし「〜に」の形(「与格」といい、ドイツ語の「3格」)だけをとるような場合はこれに相当しません。まして、自動詞であれば対格の目的語をとらないわけです。そしてこの「信じる」は、他動詞ではなく、自動詞である、だから「〜を」とは理解できない、というのです。
 
 日本語で「信じる」は他動詞です。「〜を」を要求します。しかし西欧語、ここではギリシア語においては、「信じる」は目的語をとらない、自動詞です。「〜に信頼する・信頼を置く」のようなニュアンスで、与格をとるか、前置詞を必要とするかします。英語でも、「私はあなたを信じる」というには、「I believe in you.」といいます。学校で学んだときに、不思議に思った人もいたことでしょう。「I believe you.」という表現は可能ですが、これは「あなたの言うことを信じる」感覚だといいます。「believe in」となって、「その存在を信じる」ことや「信頼する」ことを表すようになります。
 
 田川氏は、神の存在を信じるかどうかなど、聖書の世界で意識に上ることもないわけなので、神を信じるという表現は、与格を使うとき、神を信頼する、あるいは神に対して誠実な態度を保つという意味でのみ、聖書は用いている、と述べます。しかし新約時代には前置詞を使う傾向が強まり、聖書でも「〜の上に(epi)」や「〜の中へと(eis)」を、「信じる」に付けて表すようことが多いのだそうです。
 
 その他の理由も挙げていますが、とにかく文法的には「キリストを信じる信仰」という意味に解することはできない、と指摘します。しかし、ルターの教説からこれは尊重されたのだとした上で、このような表現が、ヤコブ2:1を除いては、すべて真正の(疑いなくパウロが書いたと認められる)書簡にしか出てこないといいます。パウロにおいては、「キリストを信じる」という言い方もまずないのだから、やはり対格的属格とは理解できない、とするのです。
 
 そうして、私見であると断った上で、「イエス・キリストの信」のような言い方は、パウロ独自の省略表現ではないか、と言っています。神がキリストによって人間を救済しようという「信実」を示してくれた、というようなことを一言で縮めて表現したと受け止めるのです。それは、律法の業績からくるものではない、という対比を含んだ形で。だから、これは私見だから押しつけないが、意味を一方的に限定するかのように、解釈によって訳出するのではなく、翻訳としては、どちらかの意味に限定せず、直訳のまま「イエス・キリストの信」としておくのがよい、と提言しています。また、人は必ずしも文法に忠実に言葉を語るとは限らないことと、パウロより遅い時期の聖書文書からは、キリスト教信仰を表現するためにこの表現をとる場合が見られる、と注釈を加えています。
 
 私は、この議論がすべてその通りであるかどうかについては、判断をもちません。しかし、ここから多くのことを学びました。少なくとも、主格的属格として理解することにより、イエス・キリストが私たち人間に対してか絶対的にか決めはしなくても、信ある方であるという理解によって、新たな視野が拡がっていくのを覚えました。
 
 
4.ところでここまで「イエス・キリストの信」と断り無しに記していました。「信」とは聞き慣れない、「信仰」ではないのか、と、聖書をお読みの方は仰るかもしれません。主格的属格にとると「イエス・キリストが信仰する」という、意味不明の言葉になるのではないか、ともやもやされたかもしれません。実はこれもまた日本語の問題であって、原語の「ピスティス」は「信仰」と訳すことも「信頼」と訳すこともできる語であって、ちょうど英語のlifeが「生命」「生活」などと訳すことができるのと同様です。しかしlifeには「生」という漢字が示す意味を共通項としてもつように、「ピスティス」にも恐らく「信」という共通項があると見てよいだろうと思います。そこで、「信仰」「信頼」、また誠実さを尽くすということで造語的ですが「信実」と訳すこともできるこの語は、その共通項的な意味として「信」という一語で表しておいたのです。これを「信仰」としてしまうと、その広い意味の一部だけに限定してしまうことになるからです。
 
 私たち人間も、神に対して「信実」であるべきだと考えられますので、「信」の主語は人間であってもよいのですが、神が主語になることを拒むこともできないと思われます。神には偽りがないことを表すとも考えられることは、先の田川建三氏の同じガラテヤ2:16の註で触れられています。これを日本語ではしばしば「信仰」と訳していますが、田川氏はそのことを快くは考えていないようです。日本語で「信仰」というと、どうしても「仰ぐ」ということで、人から神への方向性が滲み出てしまいますので、意味を限定してしまうということなのでしょう。
 
 このことは、私たちの「信仰」生活においても影響を与えかねません。何かしら人が神に何かをしなければ、という気持ちを推進する表現だとは考えられないでしょうか。神が私たちを救う、とまで理解したとしても、だから神に何かお返しをしなければ、というような気持ちに、元来日本人的な宗教心ははたらきがちです。また、人のほうから神に向けて修行をして仕えなければ救われない、という発想も出てきそうです。しかしこれらは、聖書のメッセージとは些か趣を異とするものではないでしょうか。「信仰」という言葉を遣うことで、「仰ぐ」ことが始終つきまとうことにより、そうした誤解が展開してくとすれば、やはり訳語の決定は大きな影響を与えるものとなります。聖書の訳語決定は、元来の語が広い意味をもつとして、それを狭い意味の日本語にしてしまうことにより、特定の意味でしか理解できないような読者を育ててしまう怖さを併せ持っていると言えます。だからまた、原語に当たれない場合でも、複数の日本語訳を比べてみる、という読み方が勧められるわけです。それでも従来の訳が気づいていない面があるかもしれませんが、いくらかでも、特定の方向に走っていくことから守られるかと思われます。
 
 
5.ここまで日本語の問題として説明してきました。属格というのは非常に厄介なもので、これまで日本語の「の」を使って考えていましたが、必ずしも「の」と一致しているわけではなく、ギリシア語ではこの属格を支配する前置詞が多々あり、とてもとても「の」で説明できるものではありません。所属する・その一部分である、といった感覚があるようですが、そこは文化、単純には理解できません。
 
 動詞によっては、日本語で「から」と表現する場合に属格である場合があります。その他「を(目指して)」「と(比べて)」など属格の範囲は幅広く、「記憶していること」「感知すること」「支配すること」などを表す動詞には属格が用いられます。
 
 こうして「イエス・キリストの信」は、元来の属格の問題として考えると、なかなか手に負えない世界が広く深く現れてくることもあり、果たしてパウロが用いているこうした表現の意図が何であったのか、ますます混迷の度合いを増していくことになりそうです。この藪を掻き分けて通り道をつくってくれる研究者の労苦にまことに敬意を表する次第です。
 
 いま触れましたが、この「(イエス・)キリストの信」は、殆どパウロに限定した表現だと言えます。ここでは新共同訳を引用しておきます。ただし、たとえばどれも「よって」となっているところも、最初のガラテヤ2:16では最初が「イエス・キリストの信を通して」、次が(3:22も)「キリストの信から」のような前置詞が使われているなど、その前後も含めて全体を考えていく必要があることはご承知ください。そして、皆さまがご自身の「信仰」からこれをどう受け止めていくかチャレンジを受けるというような、小さな機会になればうれしいと思います。
 
●ガラテヤ2:16
けれども、人は律法の実行ではなく、ただ【イエス・キリストへの信仰】によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、【キリストへの信仰】によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。
 
●ガラテヤ3:22
しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、【イエス・キリストへの信仰】によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
 
●ローマ3:22
すなわち、【イエス・キリストを信じること】により、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
 
●ローマ3:26
このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、【イエスを信じる(イエスの信からの)】者を義となさるためです。
 
●フィリピ3:9
キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、【キリストへの信仰】による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。


6.最近、関智征という若い牧師の論文をインターネットで見つけました。その結論への賛同云々は読者の自由ですが、そこにこの「イエス・キリストの信」についてのこれまでの問題がなかなかコンパクトにまとめられていて、よくぞこれだけ簡潔に示せたものだと驚きました。もちろん、そこには論者の有する結論へ導く述べ方がなされているわけですが、幾多の研究者の考えや訳語の比較などが一覧できて、学ぶためにも有効だと思いました。
 こうなると、私の文章などいますぐ読むのをやめて、こちらのpdfファイルにお目通しくださったほうが賢明です。
 
http://honyakukenkyu.sakura.ne.jp/shotai_vol13/No_13-003-Seki.pdf
 
 
7.「イエス・キリストの信」は、「イエス・キリスト」の部分を、主格的属格にとるか目的格的属格にとるか、大いに議論がなされています。上の論文にもあるように、宗教改革者ルターの強調点からすれば目的格的属格を前面に出したいでしょうし、他方近年とみに主格的属格説が勢いを増しているとも言われます。先の論文は、その主格的属格に賛同しつつも、目的格的属格を切り捨てるという立場はとらず、両義性を保つ向きに傾いていると言えるでしょう。むしろそのために「ピスティス」を「信仰」「信頼」かどちらかで訳出しなければならないという日本語の前提に不適切さがあるのではないかということを示唆しています。このあたりは私の理解と重なるように見えます。
 
 それに乗っかるようにしながらも、私の受け止め方を最後にお伝えしなければフェアではないと思われます。もちろん私は論ずるほどの知恵も知識もありませんので、私の私意です。それは、両義性を神が許しているとして受け止めたいということです。たとえばこのパウロならパウロで、どちらかの意味だけを念頭に置いて強く論じているのかもしれません。パウロが両義性をもたせていた、と決める必要はない、と。しかし、もしもパウロがどちらかの解釈を考えていたとしても、そのどちらかに限定されるような表現を、後に聖書となる手紙の中で使わず、後世大議論が起こるようないわば曖昧な表現をとったという歴史のいたずらのような結果を、神が許していた、と考えたいのです。その結果、私たちは比較的自由に、自分たちの信仰の重要性を考えたり、キリストから信用されている自分の存在について考えたりする機会を与えられました。どちらも恵みととりたいのです。新約聖書が、かつての「律法」のように、一部の権威者によって、(限りなく)ひとつの意味で理解しなければならないとされ、それに従えぬ地の民を見下すような道具に使われないように。そもそも福音書のイエスが、そのような固定的な解釈に対して悉く異議を唱え、〜と律法にあるが、わたしは言う、と他の理解を提示し、しかも律法の一点一画も滅びないと守ったことの内に、この両義性の考えに近いものが感じられてらないのです。
 
 神は聖書が多義に解釈されることを許している。そこに「神の信」があると、いま私は「信」を置くことにしています。



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