映画の楽しみ方、そして
2018年6月2日
話題の新作映画が封切られる時期。その初日に行ける機会があり、昼すぐの上映に与ることにしました。テレビでもそこそこ宣伝していたし、特番も組まれていたのですが、一部のファンのほかにはあまり一般的に知られてはいなかった物語であったかもしれません。平日が初日とあって、客はガラガラ……いえ、はっきり言うと、私ひとりでした。
でも、とても元気をもらいました。
映画は、いろいろな楽しみ方や好みがあるだろうと思います。スカッとすることを求めることもあろうし、芸術的な感動を味わいたい人もいるでしょう。私は、希望のもてるものが好きです。
それは各人様々でしょうが、こういう人がいます。映画の「批評家」です。いえ、プロの批評家はそれを生業としているわけですし、プロならではの視点というものが参考になることも確かにあります。そして、映画の質を高めるためにも、批評の目は必要だと思われます。私の言う「批評家」は、普通の観客が、その映画がどうのこうの、演技がどうのこうの、と盛んに論じることです。
批評家が、あまりに多いような気がするのです。確かに、いくらかの出費をして時間を割いて観に行くわけですから、期待はずれであったら、何かしら文句のひとつも言いたくなるでしょう。それにしても、「映画とはそもそも……」のような観点で、とやかく映画を論じるというのは、まあいろいろ観ている映画好きならそうしたくなる気持ちも分かるのですが、さて、何を求めて映画館に行ったのか、私から見ると、不思議に思うわけです。
映画の出来不出来や、俳優の優劣を論じるために、私は映画を観には行きません。楽しみたい。元気や勇気をもらいたい。ひとしきり現実を離れ、忘れたいことを忘れてフィクションの世界に浸り、そこからまた現実に戻るときに、立ち上がったり、一歩踏み出す力を与えられたらありがたいと思う。ま、それを期待して行くというのもおかしいのですが、結果的に、そういうことが多いのは事実です。
映画を批評するとき、私たちは、映画を審査する立場に自らを置いています。映画に影響される自分というものを、まるで避けるかのように、映画を対象化し、自分はその映画の世界の外に立って、映画を分析します。その映画によって自分が変わるというようなことを望まず、映画を観察し、そして批評するのです。
もしも、これが映画でなくて、聖書だったらどうでしょう。聖書について物知りになり、蘊蓄を語れるほどになったとしても、それを自分の外に置き、対象物として分析するものとして扱っている場合が、世にはいくらでも見られます。しかし、キリスト者は、そういうタイプではありません。あってはなりません。まして、聖書から生まれたはずの教会について、論評することを生き甲斐のようにしているタイプの人が、自分はキリスト者である、と豪語するようなことが散見するのは、実に奇妙なものだと言わざるをえない、そのように考えます。
逆に、映画を楽しむように、聖書を楽しむことは、すばらしいことではないでしょうか。聖書は、映画とは比較にならないほどに、勇気と希望を与えてくれます。イエス・キリストと出会った人は、もうそれどころの騒ぎではないくらいに、躍り上がるのです。人を変えて、ダイナマイト的な力を発揮する、聖書とその言葉が語られる説教、あるいは賛美の中から、また仲間の中から、日々新作の物語が現に封切られていることを、私たちは目撃し、そして証言します。それが、キリスト者の生活ではないでしょうか。
そして私たちは、ここからまた新たな物語を生きていくのです。