「批判」してください

2018年5月28日

説教担当の牧師が、礼拝後の分かち合いの集いに加わってくださいました。ハードなスケジュールでお疲れの中、休む暇も与えず、無情な信徒だったかもしれません。説教についての分かち合いという意味合いの場でしたが、質問コーナーに花が咲きました。
 
「批判をください」と口にする牧師。これは実によく出てくる言葉です。まさか新約聖書のオーソリティを批判するだなんて、畏れ多い、というのが正直私たちの懐く思いでありましょうが、ここで「批判」という語について「検討」してみることにしましょう。
 
牧師はしばしば「正しい意味の批判」とか「本来の批判」とか形容することも多く、どうやら日本語で私たちがなんとなく感じる「批判」とは意味合いが違うようなのですが、なんだかぴんとこない人もいらっしゃるかもしれません。そこで、そこにこめられた意味の解説を試みようと思います。
 
「批判」は英語ではcriticismですが、フランス語の綴りと同じcritiqueだと「批評」か「評論」のような意味が強いでしょうか。ドイツ語はKritik。発音すると、これらは似かよっていることからお分かりのとおり、いわば同じ語です。すると、元来の意味はどうだったのか、気になります。
 
元はギリシア語から来ていると言えそうです。kritikosは、形容詞で「鋭く見分ける」「判別力ある」意味があります。ヘブライ書4:12に「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを【見分けることができる】からです」と使われています。
 
同じくギリシア語でkritesだと「裁判官」や「審判者」また、士師記の「士師」の訳にもなっています。kriterionは「裁判所」や「訴訟事件」、このあたりが聖書で使われている関連語です。動詞としてはkrinoという語があり、これは「分ける」あるいは「分けて選ぶ」といった意味をもちます。聖書の中でもこの動詞は多く用いられる基本語のひとつといえ、「判断する」「決める」「判決する」のように様々な訳語で示されます。この最後の場合から展開して、「非難する」の意味で使われることも多々あります。
 
聖書で使われているのはこのあたりですが、西洋思想では伝統的に、その基本的なニュアンスである「分ける」がこめられてきたように見えます。これを日本語訳するときにどういう過程で誰がどう決めたのか、それは今回よく調べられませんでした。日本語に絞って考えると、「批判」という語は、しばしば「非難」と混同されます。ですから訳語として最善であったかどうか、やや疑問が生じます。これらの違いが分からないという質問もネットには多く見受けられます。そのとき、非難のほうが、あげつらい責めるきつい意味が強く、批判には、評価・検討といった意味合いが含まれるという答えが多く寄せられています。批判は、何らかのコミュニケーションをするという基本が底を流れているという理解をしている人もいます。
 
西洋哲学思想の地平でこの「批判」を紹介するなら、「ある事実や思想や行動について真偽、優劣、可否、是非、善悪を判定し、価値をあきらかにし、評価をくだすこと」という説明があります(平凡社・哲学事典)。カント哲学が人間の理性自身を「批判」したことで人類史上最大級の業績を遺したことにより、「批判」は有名です。これは、ギリシア語から推測するにと、与えられた対象を要素に「分け」、評価することだと考えられています。
 
そもそも私たちは日本語で、理解する意味で「わかる」と言いますが、「分かる」と漢字で書く場合があります。「分かる」ことは「分ける」ことである、と子どもたちに説明をすることもあります。感覚で集められた情報や知識が入り混じりごちゃごちゃしているままでは、分かったことになりません。一つひとつの事項が明確に区別され整理され位置づけられるときに、初めて分かったという言葉を発するのではないでしょうか。分けて、知識を整理して系統づけ、それらがつながったとき、私たちは分かったと口にするのです。
 
私たちは、経験をいろいろ見聞しますが、ともすれば自分知りえただけの雑多な情報から、決定的に重要な判定を下しがちです。自分の信念をそこから築くこと自体が悪いとは申しませんが、しかし経験は限られており、偏っているかもしれません。自分の見える世界なんて小さなもので制限されたものに過ぎませんから、そこから気まぐれに見たものですべての事柄について判定をすることに、果たしてどれだけの信頼性が置かれるでしょうか。また、特定の理論や考え方を知り感動し共感をもち、それがもう真理のすべてだ、と安心したい心理も人間にはありがちです。これも、すべてとするには問題があるでしょう。適切な判定をするためには、思いつき(見た目)で分けるだけでなく、十分慎重に、よく調べつつ思慮深く分けていくことが求められます。
 
これが「批判」と呼ぶに値する行為です。「批判」とは、相手を最初から敵と考えて責めることでないばかりか、相手を陥れるのが目的の発言であってはならないと考えられます。互いにその検討によって益を得るために、よくよく調べて考えてみようではないか。ソクラテスの持ちかけ方にも似た、この熟考には、相手に遠慮して社交辞令的な、お茶を濁すような話でよいはずがありません。他方、はっきりものを言われたことですぐに感情的になり人間関係を壊すような事態も、批判には相応しくありません。妙な気遣いで言葉を出さないのではなく、はっきりと気づいたことや言うべきことを指摘して、お互いにとりよりよい結果へと導かれるように共に検討することが、「批判」の本来的な意味であると考えられます。
 
礼拝説教に限らず、著作や文章に対しても、気づいたことをはっきりと告げることにより、よりよい結果が結実するように向かうこと、こういう営みをこそ実行しようではないか、というふうにして、「批判を出してください」と頼むのは、私もまた同感です。「学」というものもそうあるべきだと思うのですが、時に学説を競う世界ではトラブルになることも事実あるように見受けられます。残念なことです。
 
そう、この社会の中では、いろいろな人がいて、適切な「批判」をしたつもりであっても、相手が非難されたと受け止めてすっかり感情的になるという場面も大いにありうるような気がします。理性的な議論ができる場が必要です。近代哲学は、自由の名の許に、この場を築くことを目指し、また歴史はそのように流れていきました。教会は如何でしょうか。理性的な議論も必要ですし、信頼の置ける関係の中での議論が成立するとき、「批判」に基づく話し合いがもたらされることでしょう。そうして、黙ったままでにらみ合っていても生まれなかった、よりよい結果が導かれることになるでしょう。理性的であると共に信頼的であること、あるいはこの場合信仰的であること、それが成立する場だからこそ、「批判」を求めるということは、教会に相応しいことであると理解します。世には、そうでない教会があるとも聞きますし、私の経験では、適切な「批判」を通して教会活動がつねに運営されているような教会は、むしろ稀ではないか、というように危惧するのはやむをえないような気がします。
 
そこで、説教者自ら「批判を出してください」という姿勢は、自分の名誉や誇りを押しつけるのではなく、互いに高める(教会を「建て上げる」という感覚の語が新約聖書では用いられています)ことを目指して、共に歩んでいこうとする呼びかけを示していると捉えたいのです。もしかすると、ご本人の意図からは外れている見解であったかもしれませんので、これらは「私見」であり「私想」としてここには掲げておくことに致しますけれども。



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