eulabeia(エウラベイア)

2018年5月27日

キリストが叫ぶ中、このeulabeiaの故に、父なる神に祈りと願いが聞き入れられた、とするヘブライ人への手紙が説教で取り上げられました。
 
eu の部分は「よく(well)」に相当し、labeia は「取る・受け容れる」などとたくさんの訳語が可能な動詞に由来します。ヘブライ5:7と12:28でのみ登場します。但し、分詞という形で、11:7にも現れており、これらは新共同訳では次のような箇所です。
 
5:7 キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、【その畏れ敬う態度のゆえに】聞き入れられました。 ※【 】は表現的には[エウラベイアから]
 
12:28 このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、【畏れ敬いながら】、神に喜ばれるように仕えていこう。 ※【 】は表現としては[デオスとエウラベイアとともに] 、これらは同義語として用いられていると推測できる
 
ここの、御国を「受けている」というところにある語は、この語に近い語で関連が感じられることから、対比して捉えることができるかもしれません。尤も、どの程度重視してよいかは分かりませんが。
 
11:7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、【恐れかしこみながら】、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。 ※ここは分詞なので、動詞を変化させた語が単独で説明を加えているものです。
 
いずれにしても、この語は、神を、あるいは神のなさることを、よいこととして受け取る感覚で用いられていることは確実です。そして、ヘブライ書独特の語彙として、ほかには新約聖書で使われてはいないのです。
 
説教では、イエスが一面ではまさに聖人のように美しく苦難に立ち向かうかのような印象を与える表現がある一方、苦しみの絶叫や絶望のような姿も示していることが指摘されました。聖書は数学の定理を証明するような手法はとらないのです。しかし私は、その苦難を惹き起こしたとしてよい神の側からすれば、ともにいるという形で共に苦難を背負っていたことをしっかりと認めているべきであると捉えました。このヘブライ書の短い表現の中にもそうした観点は実りを与えています。以下、説教者の意図とは無関係に、私の心に浮かんだことを綴ってみます。
 
自分の思うようにならない、ままならぬ事態に私たちは出くわすことがあります。戸惑い、嘆くかもしれません。聖書を読んでいるのに何故、教会に行っているのに何故、との思いに襲われることがあるかもしれません。けれども、神はすでに私たちと共にいてくださっており、私たちの苦しみもご存じなのです。苦しい、辛いことをもちろん軽く見るつもりはありませんが、その時、十字架を見上げ、苦しみを担っているキリストと向き合うならば、神への畏れが生じないでしょうか。しんどいかもしれませんが、与えられたその状況や立場を「よく受け容れる」ことはできないでしょうか。もしそれができれば、同じエウラベイアのとりうる意味としての別の、祈り願い求めることを「よく取る」ことへと直結していくのではないでしょうか。それを神は聞き入れてくださっているのだし、神は喜んでくださる、いずれ私たちに、絶大なる喜びを与えてくださるのだという希望を「取る」ことへと。
 
苦しい時に、私たちの目の前に分かれ道が見えることがあります。どちらを選択するか。誘惑というか、時に滅びに向かう道が、おいでおいでをするような様子を見ることがあるかもしれません。でも、ここまで自分を導いてくれた神の道に気づくとき、私たちは、分かれ道の「良いほう」に、必ずや足を踏み出すことになるのではないでしょうか。それは、「よく受け容れ」つつ、「よく取る」歩みである、そのように信頼していきたいと願うのです。
 
けれども、あまりに深刻に、堅苦しく考える必要はないでしょう。すでにキリストは勝利を取られているのです。私たちがもがいて、勝利を目指して闘う必要すら、ないのかもしれません。すでに勝負は決まっている。だから「落ち着いて」主の戦いを見る。ただ、神の計画の中では結果がはっきりしていたにしても、人間には徐々にしか物事が見えてこないものですから、私たちはその都度照らしてくる光が与えられてくるのを受けて、主が共にいることを心強く感じつつ、確信を与えられながら、あるがままにあり、するがままに歩んでいくものでありたいと願うのです。
 
もちろん、「なんでも好きなようにしてよい」というふうに誤解されてはいけないのですが、「あるがままに」というのは、キリスト教の考えの中でも、非常に深淵な部分に触れる捉え方ではないかと思います。そうしたことについては、またいずれ語り合いましょう。
 
最後に、有名な、ニューヨーク、リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩を、曲のために私がまとめたものを以て、たぶん「すきま」などなかった説教に、花を添えることができたらと願い、掲げます。
 
 
   病者の祈り
 
 大きなことをなそうと願い
 力がほしいと求めたけれど
 慎み深く従順であれと
 弱さを神から授かった
 
 偉大なことができるようにと
 健やかな日々を求めたけれど
 より善いことができるようにと
 病弱なからだを授かった
 
 幸せになろうと思い
 ささやかな富を求めたけれど
 賢明であるようにと
 貧困を神から授かった
 
  求めたものは
  ひとつとして 与えられなかったが
 
 願いはすべて 聞き入れられた
 願いはすべて 聞き届けられた
 あらゆる人の中で私は
 最も祝福されたのだ



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