羊飼い

2018年5月13日

羊飼いは、やはりクリスマスの絵に似合います。絵本に描かれる可愛い羊飼いは、いかにも牧歌的なのんびりとした姿に感じられるかもしれません。
 
語り方によっては職業差別になるので注意を要しますことをお許しください。当時の羊飼いのイメージは、良いものではありませんでした。そう、律法を守ろうとしても守れないために、ファリサイ派のようなエリートからは蔑まれていたことは、福音の話の中で必ず持ち出されます。でも、実のところそれくらいのものではなかったことを、もっと想像するべきではないかと考えます。
 
教育を受けることもなく、体力だけが自慢の、野蛮な者たち。人が携わりたくない、肉の処理。動物臭に取り囲まれ、不潔な環境で生活し、力だけの論理がまかり通る仲間の掟。そのため都会人との交流などなく、まともに近づけないような存在。
 
イエスが福音を伝え、人々を癒したり、食べ物をもたらしたりする中で、羊飼いはとんと現れません。イエスの宣教の舞台にすら現れないような者たちだったのです。エジプトにヨセフの兄弟たちが移住しようとするとき、羊飼いという職業だけは言うな、と口詰めされたのも思い起こします。それをつい喋った家族は、ゴシェンという地で暮らすように仕向けられますが、これは動物臭い土地に放りやられた、と見ることもできそうです。
 
そもそもイスラエルの偉大な王として慕われたダビデ自身、羊飼い出身でした。ダビデはひ弱な少年のように、ゴリアトとの戦いの故にイメージされますが、野生の動物とも闘えるというほどの猛者だったはずです。そこからサウル王の側近として用いられ成り上がった様は、秀吉どころではない出世だったのかもしれません。また、それ故に、秀吉のように、庶民から愛される基盤があったのかもしれません。
 
それでも、ヨハネによる福音書では、イエスは良い羊飼いだと自称しました。これは思い切った宣言だったようにも思われます。イエスとは、「あの」羊飼いなんだと? 聞いた人は呆れたのではないでしょうか。
 
私たち読者も、そのため、羊飼いと聞いて、ロマンチックな印象をもつべきではありません。そうでないと、羊飼いを差別的に見下していたエリートたちはけしからん、と他人事のように考えてしまいます。政治家ばかりが世の悪であり、庶民は善人ばかりだ、と考えるようなものです。羊飼いたちを差別的に扱っていたのは、一部のエリートではなく、ほかならぬ私たちなのです。
 
(このあたり危ない言い方なのですが)私たちが軽蔑している人々や層があるとします。それが、あのクリスマスで主に真っ先に招かれた羊飼いなのです。そしてその先頭に立つ良い羊飼いが、イエス・キリストなのです。イエスは、美しい白い衣をまとった聖者として目の前にいるような気がしていませんか。山上でイエスの姿が白く変貌した、という記事がありますが、変貌したということは、普段は白くなかったのです。薄汚れた、野蛮な姿でしかなかったのです。私たちが軽蔑している相手の姿、それが、私たちの目の前に現れたイエスなのです。この点を押さえておかないと、私たちは「いい気に」なってしまうのです。
 
そういう悪辣な代表のような羊飼い、それを主人として従うしかない羊。それが私の姿だと詩編23編の詩人は歌います。私たちは、スマートな都会人からは相手にされず、世の知恵者からは軽蔑され呆れられている、そのようなイエスを主人としてついていく、それまでさまよっていた羊であるのです。



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