読書
2018年5月9日
いまの私を知る人からは、信じてもらえないかもしれませんが、私は小学生のころ、読書が大嫌いでした。なにしろ面倒くさい。文章を、国語の時間で読むように読んでいたら、1頁を読むのに1分はかかる。目の前に200頁の本があったら、3時間以上をこの本のために潰すことになる。そんなことをしているくらいなら、外で遊んだほうが楽しい。そんなふうに考える子どもでした。
他方、図鑑は好きでした。イラストによる図鑑でしかありませんでしたが、ウミウシが居並ぶ小さな図鑑は、こんな面白いやつが海にいるのか、とわくわくしました。宇宙の星やミクロな世界の説明にはすっかり心を奪われました。
私はきっと、対話が苦手だったのです。ひとを理解しようとしないから、ひとから理解されることもありません。それはいまもあるかもしれませんね。ただ、読書は対話であり、心の交わりがそこにある、とは思います。
自分の欲しいものだけを検索して手に入れ、気に入るか気に入らないかで価値を判断する。他者から磨かれることのない自己実現がすべてであるかのように勘違いをする。読書は、こんな危険なあり方から救ってくれるかもしれません。
きっと心の底では、潜在的にであるにしろ、人間が懐くであろう根本的な問いを、ひとは有しているのではないか、そんな気もします。ひとは――自分は――「どこから来たのか」「いまどこにいるのか」「どこへ行くのか」そして「何であるのか」。
カントだったら、ひとは「何を知りうるか?」「何をなすべきか?」「何を望みうるか?」とたたみかけ、「人間とは何か」に向くのでした。問いというのは大切です。すでに問いを立てるということが、実は答えを何らかの形で内包しているという点を、大学で最初のテストのレポートで私は書きました。たいていの場合は、問い自体を立てることができないのです。
子どもたちだけの問題ではなく、すべての生きる人にとり、読書は必要だと考えます。これは書物だけを対象とはせず、自然の中に何かを読み取る、そんなことを含めて、考えます。