上演された福音書

2018年5月9日

演劇でも、また映画でもしばしばそうですが、上演される物語の、結末が分かっているということがあります。なんだ、最後にそうなるのか、ということが分かっているなら、魅力がなくなるでしょうか。いえ、それこそが客を呼ぶ宣伝となるに違いありません。そこへ至るまでに、どんな経過を辿るのだろう、というところに、ひとは関心を寄せるのです。
 
あるいはまた、そういう結末に至るにあたり、様々な伏線というものが物語に隠されているはずですから、それを強く意識しながら舞台や画面を観察するというのが、また面白いとも言えるわけです。
 
結末が分からない故にわくわくするという物語もあります。映画「君の名は」は、予備知識なしに観ましたので、どうなるか分からず緊張しました。尤も、アニメとなると、偶然によって画面を作ることがありませんので、何かしら不自然な点や画面に映る何かが、伏線なのだろうという構えで観るわけで、私は私で、一般評とは違う視点からも観ていました。それも楽しみだと言えましょう。
 
さて、この物語は悲劇的性質があると分かっていて、それを見守る読者という設定があるのが、福音書でしょうか。いや、悲劇などとんでもない、「驚愕のラスト10分」といった映画の触れ込みが当てはまるかもしれないし、もしかするとCGスペクタクルで描かれるサイコ風の楽しみをする人がいるかもしれません。
 
ともかく福音書を読むにあたり、私たちは一定のラストシーンを知っているわけですが、どうやら続編があるということも分かっています。その続編の意味するところも、クリスチャンならば知っていることになり、読み慣れてくると、規定の路線を辿るばかりの、分かり切った筋書きの物語として、もう知ったつもりになることもあるでしょう。
 
しかし現実はどうでしょう。愛する人が病気になった。この先どうなるのか、ほんとうに祈りばかりです。その場面を何が締め括るのか、知りえないために不安になります。仕事がなくなった、ひとが行方不明である、事件に巻き込まれた、等々、先行き不明な事態に置かれたとき、私たちは途方に暮れ、また悪い事態が頭に過ぎり、いてもたってもいられなくなります。福音書のように、悲劇は迎えるが、その後に勝利が待っているという具合には落ち着いていられないのです。
 
福音書は、このように結末を知る者が、それでもなお、それだけの物語ではないという受け止め方をするように、読者に要求する物語です。読者への効果をも考えながら編集されているということを弁えておく必要があります。たんに、伝えられたり見つかったりした資料をつないで並べただけのものであるはずがありません。読者を想定して筆者が描いた、というそのテキストを、そのまた別の読者たる聖書学者が俯瞰します。恰も神であるかのように福音書を解釈するなどとは、恐らく筆者は考えていなかったことでしょう。しかしまた解釈者である学者もまた、神ではなくひとりの人間である以上、福音書の呼びかけに応えるべくここにいる魂であるし、福音書の中に呼ばれなければならない存在であるはず。ここに、クラインの壺の如く、ねじれた解釈空間ができていくことになります。
 
そして、このようにさも分かったふうに述べている私もまた、その壺の中にもうひとつの次元から突入する、もはやイメージで描くことすら不可能な事態が成り立つことになります。
 
そうなると、何がいちぱんすっきりするのか。それは、メタ次元に上ろうとせず、つまり福音書の筆者と読者とが構成する世界を超えたところに行ってそこから見下ろすのだといった、錯覚めいた立場からの視点を断念し、ただひとりの人間として、福音書の空間に入るのがよいのです。映画を観ている自分が映画をどう捉えるべきかということを考える自分がいる、といった複雑なレベルにもっていくことを止めて、ただ映画に入ればよいのです。脚本家はどういう気持ちでその脚本を書いたのだろうかなどという思惑に走らず、物語に心を揺さぶられたほうが楽しいに違いありませんから。それに第一、仮面をかぶった役者を表そうとして、「偽善者」の語を用いていたではありませんか。演ずるのが私たち読者に求められているのではないとは思いませんか。
 
福音書の中の世界は、文化的にいまの私たちの常識では分からないところが多々あります。時に、日本語に訳したものが不適切であることもあるでしょう。けれども、精一杯想像の翼をはためかせ、描かれる世界に飛び込んでいきたいと思います。福音書記者の思惑通りになるのが悔しいと思う人もいるかもしれませんが、そこで出会うのは、記者ではありません。主イエスと出会えばよいだけです。



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