賛美リーダー
2018年5月5日
賛美リーダーのセミナーでの学びを報告する集いがありました。発表者自身の言葉というよりも、ここではそれを聞いた者の受けたこととして、表してみることにします。
賛美とは何か。そして、賛美はどのようになされるのか。本質的な前者の問いより、まずは帰納的に私たちの具体的なあり方を顧みる、後者の問いから出席者の思うところが挙げられていきます。楽器を使い奏でたり、踊ったり、また自然の中で感じたりと、私たちが賛美をする姿は様々にイメージされます。抽象的ですが、私は「全身で」賛美するのだという捉え方を呈しました。それは、たんに声というメディアによらない、ということであり、ひとの全人格的な営みであるということを含みもつものでした。
この問に関して、発表者は、「聞く」ことの重要性に皆を気づかせようとします。これは、賛美なるものが、ひとから神への方向の中だけで捉えるべきものという一般的な理解を超えて、神から与えられるものを含め双方向的な図式の中で、賛美というものを認識しようということへの気づきでした。私たちはどのように賛美するか。それは、神へ向けて賛美し、神からの声を聞く、そのどちらもが、賛美の構成要素であるということです。
そこで、より根底的な問い、賛美とは何か、に考えを向けます。それは、神と礼拝者との交わりのことだと提示されました。またそれは「祈り」でもある、と。実は私とへペアになった人とのペアトークの中で、これはひとつ結論されたことでありました。賛美は祈りである、と。賛美は音楽性を伴うのが通例なので、そこには感情を高めるなどの効果もあるでしょうが、ひとが神と向き合い、神から受け、神へとレスポンスする営みとしての祈りは、賛美が有していなければならないものを表しているのである、と捉えたのです。ヨブはどうして神から離れなかったのか。ヨブは神と向き合っていたのです。人間的に欠陥だらけのダビデがどうしてあれほどに祝福されたのか。ダビデが神の方を向いていたからです。祈りは、顔と心を神に向けること、神の前に出ること、そして神と人格的な対話をすることでもあります。そのためには、神と出会っていることが大前提です。イエスを通して、父なる神を体験するのです。
さて、それでは賛美リーダーは、この図式の中で、どこにいて、何をするのでしょう。発表者は、神と礼拝者との双方向の交わりの中間に立つのが賛美リーダーである、と伝えました。そして、その交流の両方向の矢印の流れの中に立ち、神を見ると共に、会衆をも見るのである、ここがおそらくこの学びで最も注目してほしいことだと言いたいように思われました。自らが良い気分て演奏し、歌うのではない。会衆はどういう状態であろうかをしっかりと見て知ることが必要なのです。それは、賛美リーダーという存在が、会衆が神と出会う道を整える役割を果たすからである、ということによります。
会衆が神と交わることがスムーズにできるように導くのが賛美リーダーの役割だとすれば、自分が目立つわけにはゆきません。会衆が賛美リーダーを目的として見てはいけないのです。賛美リーダーを超えて、神を見る、神を知るのでなくてはなりません。このことを分かりやすく伝えるために、発表者は、遊園地のショーへと観客を招く係の喩えを話してくれました。呼び込みの誘導係は、遊園地のショーを指し示します。そのために衆目を集める必要はあるでしょう。しかし、目的はショーです。自分が目立てばよいということで、誘導係がショーを演じてしまい、そこに観客を集めてしまったら、本末転倒になってしまうのです。目立ってはならないし、邪魔してはならないのです。
呼び込み係は、消えなければならないのです。導きながら、自らは消える。そこに役割があります。そして、観客を導くためには、その係ひとりの仕事でよしとはできません。看板をこしらえたり、アナウンスしたり、ロープを張ったり、ポスターをつくったりと、様々な人々の労力が必要です。賛美リーダーは表向き舞台で目立ちますが、プロジェクター担当や音響、照明など、スタッフ全員が、この指し示す役割に参与しており、賛美チームであるという自覚と支え合いの中で、賛美のステージがつくられていかなければなりません。
賛美リーダーという語がいくらか曖昧でもありました。最も進行を左右するボーカルだけがリーダーであるという理解もできますが、発表者はさしあたり、チーム全体をリーダーの仕事をするという理解で話を進めました。しかし、演奏をスムーズにするだけでも大変なのに、どうしたらこうした役割を果たせるようになるでしょうか。そのためには、訓練と学びが必要であるとします。さらにこうしたことは、「経験」で得るしかないのだといいます。とくにDCGには、様々な人が現れます。ただのレポートのための学生やキリスト教ビギナーもよくいます。そこへ、異言としか思えないようなものばかり呈しても仕方がありません。相手のことを考えていないことになります。また、信徒や仲間であっても、いま心の中で苦しんでいる人も、辛い人もいるでしょう。ただ明るく元気にすればよいのかどうかも疑問です。どの人にも同じように適用できる法則というものはないのです。しかしそれを方策的にどうしろということは、やはりできません。これを賄うことができるのは、経験と呼ぶしかないような、何かであるというのです。精一杯自分にできることを表すと共に、自分を出すのでないという謙遜の心をもって、会衆をとにかくよく見ること、会衆が神に方に向かうことができるように、神と出会えるように、その道を示すよう努めたいと考えるのです。
こうした話を聞いている中で、私の頭の中で駆け巡っていたことがいろいろありました。これらはとりあえずメモしておかなければ、後では分からなくなることを私自身知っているので、ずっと思いついたこともノートしておりました。それも続いてここに挙げてみます。
旧約聖書の神殿奉仕者に、聖歌隊(詠唱者たち)がいました。賛美グループがこれに相当すると考えてよいかと思います。しかし詩編のタイトルによく登場するのが、指揮者です。本当の意味でのリーダーのようなものでしょうか。全体の音楽を導く役割を果たす人です。カトリック教会でも、長く、礼拝での賛美は会衆が歌うものではありませんでした。ルターのあたりから、会衆賛美がいまの形に近い形で始まっています。このあたり、宗教改革500年のための催しやセミナーなどで昨年多く取り上げられていた話題ですので、いまからでも、作詞作曲者でもあったルターと礼拝改革について、あまりご存知ない人は学んでみることをお勧めします。また、それに対してカルヴァンが、どうして作詞を認めず、詩編をそのまま歌うことしか許さなかったのか、ということも考えてみるとよいでしょう。また、カトリックが礼典、プロテスタントが説教を礼拝の主軸とするのに対して、正教会は歌う教会である、とも言われることも参考にしていきたいものです。流行りの音楽だけしか知らないと、いつの間にか何かに流されていく可能性があります。立つべき岩がここでも必要なのです。
私は進学塾で小中学生に算数や理科などを教えています。塾の教師は、学校の教諭と似た仕事をしているようですが、置かれた立場や意識がずいぶんと違います。ひとつには、生徒を囲っているわけでなく、相手は嫌ならいつでも辞める、よそへ行くという点があります。せっかく教会に来た人でも、嫌ならもう来ないという情況がそこに重なります。もうひとつ、決定的なことは、塾では生徒の目的は志望校合格しかない、ということです。通常の学校だと、ほかにも目的があったり、教諭との人格的な交わりが求められたり、教諭が人生を教えたりということも、まだあるでしょう。しかし塾にはそれは求められません。志望校に合格できるかどうかがすべてです。そのために、塾の教師に求められていることは、生徒の力を伸ばすことだけです。塾教師が目立つことではないのです。
賛美リーダーの役割を聞いているうちに、それば塾で教える者の意識と非常に似ていると感じられてなりませんでした。生徒は合格を目指しています。その間に立つのが塾教師です。塾教師は、目的への道を整えます。志望校のほうをちゃんと見て、そこへ至る道を知っていなければならないし、それを分かりやすく教えなければなりません。他方、生徒を見ることなしに、この教えることはできません。大学の講義ではないのです。自分の研究をトップダウンするのとは違うのです。生徒の反応をつねに見ながら、話し方を、教え方を変えなければなりません。分からないところは分かるように、分かりきっていることはくどくど話さず、時にユーモアで心をほぐし、しかしここは大事なのだということはきっちり伝えるのが仕事です。その上で、塾教師自身は目立ってはなりません。邪魔してもなりません。生徒と志望校とのつながりをつくるのが役割ですが、それを適切に行なった末、自分は消えるのでなければならないわけです。
塾教師はそれぞれの科目を教えます。自分の担当科目を精一杯扱います。しかし、他の科目も生徒には必要であり、結局担当者のチーム全体で生徒を導くことになります。その中で、担任教師というのがいて、生徒に直接関わる機会が一番多いし、保護者と面談をもします。賛美チームでもボーカルなど、狭い意味での賛美リーダーがこれにあたるでしょう。そして各パート担当が他の教師です。塾教師は消えなければならないと言いましたが、格別に喋りがうまいとか芸術的に教えるとかいうことでなくてよいのです。生徒が通る道を用意できればよいのですから。但し、教師は、たどたどしく訳の分からない授業をすることはいけません。賛美の演奏も、ひっかかったり音を外したりするのは拙いでしょう。つまりは、特別巧い必要はないけれども、また目立つ必要もないけれども、スムーズに道を備える必要があるということです。安心して歌える場面を設定することが、演奏者には必要であることが分かります。それから、塾は教える教師は確かに生徒にとり大きな存在ですが、それだけがすべてではありません。プリントを印刷する裏方さん、掃除するスタッフ、受付係、皆が、その生徒の合格のための環境をつくり、貢献していることになります。教会の一人ひとりが、音響や照明に携わり、受付で笑顔を見せるというそのこともまた、道を整えることであるに違いありません。これでこそ、神の奉仕者、いや同労者なのだと言えることでしょう。
神を指し示し、人々が神と出会う道を整える。賛美リーダーの担うものがこのようなことではないか、と気づいてくると、私たちは否応なしに思い起こします。これは、バプテスマのヨハネの姿ではないか、と。一瞬、メシアではないかとさえ思われたヨハネですが、やがて来る方の足元にも及ばないと告白し、その方が来れば自分は衰えると言いました。そして自分の役割は、道を備えることだと分かっていました。見よ、神の小羊がこの方だ、と指し示すのがヨハネの仕事でした。ヨハネは、キリストに先立って現れ、キリストの道標となったのです。キリストに先立つということは、ビギナーにとって、キリストより先に目に見える存在として賛美リーダーが現れるということを意味します。しかしそれが目的なのではありません。ヨハネは福音の初めではあったとしても、福音の目的ではなく、核心ではありませんでした。やがてヨハネは歴史の舞台から消え、その向こうにあるキリストへと人々が結びつくことになります。
賛美リーダーのセミナーにおいても、実はこのバプテスマのヨハネの話に触れられたのだそうです。だとすると、私の想像も、あながちひとりよがりのものではなかったということになるでしょうか。ともかく、ここに綴ってきたことは、私の感想に過ぎませんから、事の真相については、発表者への確認を求めます。その上で、こうした捉え方をまたたたき台にして、私たち一人ひとりが、そう、音楽を直接担当しないにしても、教会の中のひとりとしてここにいる自分にとり、どんな小さなことでも、たとえ笑顔ひとつにしても、そこにいることが意味をもっているのだということに気づき、顔を上げて共に主につながる道を歩ませて戴きたいと願います。