憲法と私

2018年5月3日

天声人語の冒頭で、道路交通法・公職選挙法・独占禁止法を守ろう、という集まりがあっても役所は文句を言わないだろうが、憲法だけは事情が違う、というような掴みがあって、読ませるものを感じました。既に「朝日新聞」と聞いただけで色めき立つ論陣もあろうかと思いますが、話を政治的意見で展開しようというつもりは今はありません。
 
憲法は、法律の法律であると言われます。いったい、法律というものがあって人の営みを規制する法則たろうとするのであれば(外国語ではしばしば「法律」と「法則」は同じ)、直接的に規制するのは当該の法律であるにしても、その法律自体を規制する原則(日本語で「原則」というと必ず「例外」を示す前提となりますが、本来「原則」とは例外の存在しない規定を表します)が、国民の総意に基づいて決められているべきだろう、というわけです。
 
難しい表現をとってしまいました。たとえば個人の行為について言えば、「自分は具体的にこのように選び行為するが、それは自分の中のとあるポリシーに基づいているのだ」という、そのポリシーなるものが、憲法だということです。
 
具体的なことを指示はしないが、具体的なことに関わる規定が基づく大きな枠としての憲法。それは、私が何かをしているとき、その私自身をどう認識し規定するか、という問題と似ています。「メタ認識」という表現で、最近では中学校でも教えられている場合があります(もちろん究極的にはそれは不可能です)。何かの問題について議論しているときに、えてして私たちは、自分自身のことは棚に上げて、無関係なようにして事柄を熱心に語ります。しかし、それが自分自身に対して適用されるとどうなるかという点については忘れている場合が多いのです。これは、近代的な主観と客観の図式の成立以来、常套化している問題です。恰も自分が世界の外にいて、世界について偉そうなことを述べますが、自分はすべての言明の外にいて、例外的に、恰も神のようにそれを見て取り扱っている、という問題点です。
 
私がある物理現象を観察して、それを認識しているとします。しかし、その対象を見たということは、対象に当たった光が私の視覚に飛び込んできたということです。私の視覚的認識能力も問われるべきですが、その光が当たった時点で、私が観察したかったその対象の元来の姿は変化を受ける場合があります。マクロな対象だと殆ど影響がないと思われますが、ミクロなレベルでは、光が当たったこと自体で、対象が大きく変化してしまいます。光が当たる前の対象の姿は認識できないはずなのに、私たちはえてして自分に見えたものをその対象そのものだと見なしてしまいます。しかしそれは真実ではありません。
 
人間を診察しようとします。心の問題の場合です。私が患者に質問をして、その返答で患者の心の状態を判断しようとしたとします。しかし、私が質問を投げかけたことで、患者は私が質問をする前の心の状態から変化をし、私とのそのやりとりの中での心理状態を反映する返答をしたことになります。
 
私がそこにいて関わることで、対象の変化を伴い、純粋に対象を認識したことにはならない、つまり私がここにいることそのものが、対象世界と関わっている、このことを忘却して、対象を把握したつもりになることができない、という事態に問題があることが、前世紀あたりから大きく議論されるようになってきました。そのためにパラドックスが生じることも度々あります。
 
私は私という、世界を認識するときにどうしても私にとり例外的な扱いをしなければならないようなものを抱えています。憲法は他の法律と同列ではなく、すべての法律を扱うために例外的な存在として振る舞う原則ですから、実はそれを決めるということだけでも大変なことであったことになります。
 
ですから、何かしら状況が変わって、従来の憲法条文では対応できなくなったり、相応しくなくなったりした場合に、その変更については慎重になるべきシステムになっています。しかし多くの国では、憲法が意外と具体的に言及している問題が多く、しばしば修正を余儀なくされるようになっているため、その変更の垣根がいくらか低く設定されていました。同じ「憲法」と呼ばれるものでも、いろいろあるわけです。「私」なるものについて、ある程度柔軟に改める可能性をよしとしていることになります。
 
日本の憲法は、あまり具体性がないように見え、条文を逐一変更せずとも、「解釈」のレベルで変更したようなことになっています。つまりはポリシーの言明を変えはしないが、その理解を変化させることにより、事態の変化に対応し賄っていくことになります。「私」という自己を変えようとはせず、間違ったことはしていないという解釈を施していくわけです。
 
これは、文化の吸収についても従来からそうであったように見えます。日本は海外からの文化を、基本的に抵抗なく取り入れてきました。但しそれは、海外の文化をそのままに受け容れて同化していくのではなくて、日本風に染め上げていくような面がありました。仏教も元来の仏教とはずいぶんと変わったものになり、和魂洋才として技術だけを取り入れることに徹してきました。
 
このため、「原則」という語も、つねに例外を伴うものとして扱えるという理解をし、元来の「私」を実のところ少しも変えることがないように護ってきたように見えます。これは、いわば悔改めをせずして、表向きだけ信仰していることができる、という有様、しかもそのことに気づきもしない、ということを表しているとも言えます。
 
近年、憲法改正という名で、その「私」を変えようとする動きが活発になってきました。従来の「私」のポリシーでは新たな解釈がもうできなくなる限界に来たことを表します。それは結構なことであるように見えるかもしれませんが、新たに変えた「私」がさらに解釈の余地を残すことにより、歯止めなく解釈により、これまでできなかったことも次々とできるようになっていく、ということを意味しているかもしれません。
 
「私」を「私」が変える。変更する。少なくともキリスト者として私は、自分で自分を変えたつもりはありません。自分が自分を変えるときには、自分の願望や欲の原則に従っていくような気がします。つねに例外的になりたがる「私」なるものに警戒しつつ、究極的には不可能である「メタ認識」を意識していくことは、できはしないけれども、キリストに光を当てて反射することによって、導かれていきたいものだと考えています。



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