詩篇に学ぶ讃美

2018年4月22日

これは以前調べたことですが、わけあって今回ご紹介します。何かの学びの参考になれば幸いです。なお、聖書引用は新改訳第3版からです。
 
 
讃美は、形としては「歌」として現れてきやすくなります。しかし、狭く限定する必要はありません。私たちにとり、讃美はまた「祈り」であり、神への「ささげもの」でもあります。神を信じるイスラエルの民は、これをどのように捉えていたのでしょうか。讃美にまつわる聖書の中の言葉をたよりに、学んでいきます。
 
旧約聖書、とくに詩篇は、そのまま讃美の歌詞であったとされるほどに、讃美の心のあふれたことばの宝庫となっています。旧約聖書では、ダビデが詩篇の中心を担っています。ダビデは、音楽の名手でした。その音楽の才能の故に、イスラエルの初代王サウルに仕えましたし、ダビデが王となってからも、さかんに神をたたえる歌をつくり、また契約の箱を取り戻したときには列の先頭に立って讃美し踊ったのでした。
 
詩篇から、讃美について次の七つの言葉を取り上げてみました。カタカナは、ヘブル語をカナで表したものです。
 
1 シール
「私は主に歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(詩篇13:6)
 
主に向かって賛美や感謝の歌を「歌う」こと、これこそ神の民です。声をもって歌います。
 
2 バーラク
「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう 。私たちを造られた主の御前に、ひざまずこう。」(詩篇95:6)
 
声を出さず静かに神と交わる中で賛美すること。神の前にひざまずき、静まって賛美する意味のことばです。
 
3 ヤーダー
「よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。」(詩篇6:5)
 
投げるという意味からできた言葉で、手を神に投げ出すように高く上げることです。「ほめたたえる」と訳されています。「感謝する」意味が強く感じられます。

4 アーラー
「もしも、・・私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、・・」(詩篇137:6)
 
全焼のいけにえをささげる行為に由来します。讃美だけのための用語とはいえないようですが、香りも祈りも高いところへのぼらせるものとして、神を「たたえる」意味があります。
 
5 ザーマル
「・・主を、私はほめたたえよう。いと高き方、主の御名をほめ歌おう。」(詩篇7:17)
 
旧約聖書に非常に多い言葉です。様々な楽器を使います。ダビデは様々な楽器で、いわばオーケストラのような組織で演奏をし、歌いました。聖歌隊を調え、楽団を構成したのです。ダビデは、サウルから悪霊を去らせる技として竪琴を奏でました。
 
6 マーハー
「もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。」(詩篇98:8)
 
手を打ち鳴らすこと。角笛やラッパを吹き鳴らし、タンバリンを打ち鳴らします。手を叩いて勝利者をたたえたり、人を歓迎したりすることは、ごく当たり前のように見えますが、新約聖書に、神とのかかわりおいて、手をたたいたり、打ち鳴らしたりする表現がないのはとても不思議なことに思えます。
 
7 ハーラル
「私は、・・・・会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」(詩篇22:22)
 
ご存じ、讃美そのもの。元は、「輝く」こと、「光を放つ」ことを表します。自分のことも忘れて、なりふり構わず、アクティブに、しかも、会衆とともに神を賛美することです。歌と楽器、そして踊りも加わります。賛美の後には礼拝者の顔が輝いています。ハーラルの名詞形「賛美」はテヒッラー。詩篇のヘブル語名称はテヒラーの複数形「テヒリーム」です。ご存じ 「ハレル・ヤは、ハーラルとヤーを合わせて「主をほめたたえよ」と訳されます。
 
 
◆讃美にまつわる旧約聖書のことば・まとめ
 
1.主に向かって賛美し、感謝の歌をうたうこと
2.声を出さず静かに神の前にひざまずき賛美すること
3.手を神に投げ出すように高く上げること
4.ささげる心をもってたたえること
5.様々な楽器を使ってほめ歌うこと
6.手を打ち鳴らすこと
7.自分のことも忘れて、会衆とともに神を賛美すること
 
 
 讃美は、「わたし」が思いこんでいるそのイメージだけでは囚われない、すばらしい神との結びつきの通路です。
 讃美は、まず、「歌うこと」でした。しかしまた、実際に声として出さなくても、「心の中で」讃美することでもありました。その意味では、「祈り」も間違いなく讃美なのでした。
 また、その「手を神に伸ばす」ものでした。神に向かうものである必要がありました。
 それから、「ささげる」ことでした。自らをささげるものでなければなりません。
 実際上、「様々な楽器」を用いることがありました。オルガン一つしかだめだなどということは決してないのでした。
 ですから「手を打ち鳴らす」ことも当然あってよいのでした。
 そして聖書で最も多く讃美の言葉として示される「讃美する・ほめたたえる」その言葉は、なりふり構わず歌や楽器、踊りも含めて、光を放つこと、輝くことを意味するものでした。これこそ、「ハレルヤ」なのでした。
 
 だから「こうでなければならない」と制限するのもおかしなものです。しかしまた、「こうであってはならない」と制限することも、相応しくない場合があると理解できるでしょう。
 私たちの魂が、世の波風の中に耐えるように硬くなっているとすれば、そこから天へと解放する営みが、讃美と重なります。神と通じる祈りの中にも讃美があふれるように、そして最後の「ハレルヤ」に見られるように、きわめて自由に、解放の場の中に、神を讃美するという、神の民の礼拝があったことを、心得ておくことが聖書に従うに相応しい、と考えたいものです。
 
 詩篇に「新しい歌を主に向かって歌え」というようなフレーズが幾度か見られます。  絶えず新曲をつくり、歌う必要があるのでしょうか。新曲でもよいでしょう。しかし、昔ながらの歌でもよいのです。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。救いの喜びの中で、そして新しい心でもって、主の前に出て主に感謝をささげ、たたえる信仰が、そこにこめられていると捉えてもよいはずです。
 驚くことに、このフレーズは黙示録にもあるのです。
 二度「新しい歌」が出てくるのですが、そのうち終末の前半では次のようなシーンで登場します。
 天の開いた門の中に、二十四人の長老たちと、四つの生き物がいます。生き物たちは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と絶え間なく叫び続けています。御座にいます主に向かって、「彼らは、新しい歌を歌って言った」(黙示録5:9)というのです。そして、「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」(黙示録5:12)と大声で告げるのです。
 ここから、ヘンデルは「メサイア」の中で名曲「屠られし小羊こそ」をつくりました。そしてまた、現代でも、オーストラリアのヒルソング教会が、同じタイトルで世界中に受け入れられる讃美を生み出しています。
 私たちは、過去に縛られて身動きできないのではなく、いつでも今日からが新しい未来につながっています。目覚めていのちがあったときには神に感謝し、その都度新しいスタートラインに立つことができます。見上げる神との差し向かいの意識の中で、新しい歌がまずこみあげてくる一日が与えられますように。



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