詩編1編をたっぷり味わう

2018年4月15日

詩編は、人間から神への語りかけだと言われます。同じ人間に向けての言葉や、神に成り代わり伝えるようなメッセージもあり、様々なスタイルの、人と神との交わりがこの150の詩の中に描かれています。聖書をどこから読んでよいか分からないとき、詩編からまず読んでいくというのはお勧めできます。実際、愛唱する聖書の言葉が詩編にある人はひじょうに多いようです。
 
ところで、一部の古い写本にはこの第1編が欠けています。そこで、詩編をまとめるときに、編集者が後から加えたものではないかと考えられています。詩編にまるでタイトルをつけるかのように、置かれたようにも思えます。そこには、善人と悪人とを対比させるという、分かりやすい構図が見られ、誰しもが、この詩編をどのように読めばよいのかを誤解なく知ることができるようになっています。そもそも詩編は、旧新約聖書のほぼ中央に位置する長大な巻となっており、中央に重要なものを置くユダヤのレトリックからすると聖書の要と理解することも可能ですが、その冒頭が、この1編です。
 
注目すべき最初の言葉は原文では「幸い」です。とにかくまず「幸い」から始まるのです。次が「人」。例によってこれは「男」という語であるために反発する方もおありかと思いますが、とりあえずどうしようもありません。新共同訳で訳語としての「人」を2節にずらしてしまったのは少しもったいない。
 
表現はいろいろ変えてありますが、要するに善人と悪人とが対比されて語られます。最初は善人ですが、悪人の道が3つの段階で深まっていくのを味わうことができます。それは「歩く・立つ・座る」という語です。善人はその悪人のあり方をすべて拒否します。キリスト者は、キリストに従って歩み、キリストの道に立ちそこをキープし、そして安心してそこを居場所として座るものでありたいものです。
 
続いて、川と木の情景が描かれます。思い起こすのは、創世記2章。エデンから4つの川が流れ、命の木があった景色がありました。これが詩人の心に浮かんできているであろうことが容易に想像されます。また、新約からは黙示録22章にもこうした情景があります。新しい神の都には川があり、ほとりのは命の木があります。毎月それは実を結び、葉は薬用になるとあります。こうした木を主イエスとして捉えましょうというメッセージもあります。聖書全巻の最初と最後に、川と木と、見事な対照がなされていることを味わいたいと思います。
 
悪人は、もみがらに喩えられます。ふだんは籾と紛れて区別がつかないようであっても、いざ風に当てれば飛んで行ってしまい、見事に峻別されてしまいます。神の審きによって、容易に見分けられてしまうということです。詩編や預言者の書には幾度も登場する表現です。
 
また、その悪人についてはさらに、裁きや集いに「堪えない」と訳されていますが、原語はシンプルに「立たない」という語です。1節の「立つ」とは別の語ですが、その人が神の前に立つこと、そして認められるということ、それが悪人にはできないということを著しています。
 
もちろんこうした読み方はヘブル語の聖書であり、イエス・キリストをそこに意識しているとは言えませんが、キリスト者はこうした中にもキリストを思うことが許されます。我が身を振り返りつつ、詩編を味わいたいと思います。但し、イエスは、同じ「幸い」から始まるあのマタイ5章においても、善人悪人の対比とは趣の異なる宣言を告げていました。徹底的に、弱い立場の人、この世で損ばかりしているような人に共感しつつ、慰めを与えているように見えます。詩編と共に主イエスの生涯を思い起こしつつ、何が幸いであるかということは問い続けたいものです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります