神が天災を起こすなら
2018年4月6日
「天災をどう捉えるのか、という問い」が、ある聖書のお話の中に登場しました。するとそれが主題となって、頭の中で変奏曲が流れ始めました。特に、ある方が、震災をキリスト教の全知全能の神が為しているのならキリスト教と関わるのはやめたい、というようなことを言ったという点は、深刻だと思いました。「神よ、なぜ」と「神に」問うのは悪いことではありませんが、「関わりのなかで生きたいとは思わない」のはまずい、と。
ここには、災害が人間に起こる、その災害は全能なる神の許に起こる、という構造が前提されています。その一方通行の中では、かの人の憤りも無理もないと思いました。けれども私という変な奴は、この時すでに違う地平の中にいました。「人間は、もっと酷いことをしているではないか」と。
東日本大震災の死者は、多く見積もって(なんと嫌な言い方)も2万人でしょうか。他方、日本で、変死者をカウントしない自殺者は年間3万人を超えます。変死者の半分を自殺と見なすと、なんと年間10万人です。自殺の原因は(そんなものが決められるのかよ、という声を無視しますが)、あるデータによると病気関係が4割、残りの半分が経済問題、他の半分が人間関係、と大雑把過ぎますが見渡すことが可能です。年間自殺者の6万人が、人為的な原因で死を選んでいるわけです。
自殺の原因が、何かしら必然の中で現れた原因ではなく、人間の意志または自由によってもたらされたもの、とすると、人間がまさに原因である点は言い逃れできません。もちろん、本当にそれは自由なのかどうか、といった哲学的な議論は可能ですが、いまはそこには踏み込みません。そして人の命を乱暴に数値化することの傲慢さも覚悟の上で述べますが、人間が原因であることで、震災の何倍もの人が命を断っているとなると、人間のほうが天災よりも酷い結果をもたらしている、と言ってはいけないでしょうか。
いや、天災は町や自然を破壊し尽くすではないか、と思われるかもしれません。しかし(自然自体は回復する力をもつなどという議論を持ち出すまでもなく)人間はその何倍も自然を破壊しているのではないでしょうか。人間の意志で開発した生産手段が大気や水を汚染し、温暖化を招き、島を水没もさせ、生物の幾多を絶滅へ追い込む。その動機は、殆ど人間の欲望に基づくものばかり。快適な生活、便利が一番、自分さえ良ければの精神で、経済発展こそ善だという理論化により自らを正当化することで、後はそれを力ずくで押し通してきた人間の、特に近代の歴史。それを人災と呼ぶならば、それが破壊している自然の大きさは、天災による破壊より遙かに大きいのではないでしょうか。もはや子孫に対する罪とも呼ばれるほど、いまさえ良ければでここまで暴走してきた欲望と権力の歴史の故です。(私は敢えて、いま日本で直接リアリティのない「戦争」のことは挙げませんでした。戦争を起こすのは神だというところにまで、無責任を装う批判者も偶にいます。もしそうでなれば、戦争の愚かさも当然こうした背景に置くことができるでしょう。)
そしてこの会場に集う私たちです。ここはどうやって建造したのか。備品はどのようにしてここに置かれたのか。そのためにどれほどの、取り返しのつかない化石燃料を用い、炭酸ガスを増加させたのか。木材資源は再生原料であるかもしれませんが、お菓子を包むものだけでも、化石燃料を確実に減少させている。ここに集まるために使われたガソリン、夜を明るくするための電気をつくるために燃やされた重油。いま聖書講座を開いていることそのものが、天災の何倍もの地球破壊に関与していると見てはいけないでしょうか。
かの文章は、神が天災を起こす。天災が人の命を断ち、自然を壊す。この構図から、全能の神を酷いと評する人間でしたが、人間のほうがそれよりももっと激しい破壊と死を生み出していたと思しき事態になりました。
しかし、ここで決定的に、忘れてはならないことがあります。そう言っている私も、その酷いことをしている人間の中にいるのです。つまり、私が、私の批判している世界のその中にいます。これはパラドックスのようですが、論理の遊びではいりません。現存在の事実です。私に責任がある出来事なのです。
いったい、神を批評しているとき、私(たち)はどこにいるのでしょう。どこに立って、神を論じているのでしょう。まるで神と神の支配の世界の外に立って、神を対象化し、神をモルモットのように操りながら、実験したり観察したりして論じ合っているとでもいうのでしょうか。果たしてヨブはそんなことをしていたでしょうか。近代的な主観客観の世界観について、ようやく反省がなされ、良かれ悪しかれそれを超えていこうとかけ声が上がっている中で、むしろ神学または神学ごっこをしている私(たち)は、いっそう神を俎の上に置いて料理しようとほくそ笑んでいるような錯覚を起こしてはいないのでしょうか。「全能の神」というレッテルを貼ることで、瓶の中にサンプルとして収めるようなつもりでいやしないでしょうか。
いつも言っていますが、学者の研究成果には本当に感謝しています。学究的な営みがなければ、素人の私のような者には分からないことが無数にあります。文献をかき集め、比較対照し解明してくれる仕事のため、どれほど多くのことが分かるようになったか、数知れません。そのような探究を揶揄しているのではないのです。何の才覚もない凡人としての私(たち)でさえ、「全能の神」とやらが聞いて呆れる、というような減らず口をたたくことがあるのです。人間はいつでも自分が可愛いし、自分はどんな時にも正義の側に立っていると思い込んで生活しているのが普通です。知識が増し、生活が便利になると、よけいに自分自身が「全能」に近くなっていく錯覚に陥ります。人間が自分を神とする、という指摘がそこにあります。「全能の神」を評することで、自分を全能に見立ててしまう危険な構図に走っていきそうです。しかし多くの場合、自分は神ではないという意識があるから、ジレンマに陥ります。もしかするとそれは、心理的な反発のようなもので、本当は「全能の神」を求めているからこそのジレンマであるのかもしれません。
私にとっては、贖罪を肯定するか否定するか、それは根本的な問題ではないような気がします。判断を下すにあたりいくらかの前提(コンピュータなら初期条件)を変えれば、どちらにも結論は転がるであろうと思われます。その上で申し上げますが、もっと根本の部分で、否もっと広大な部分で、青野先生の信仰にほっとするものを今日確かに感じました。それは、質問に応える場面で、「介入しない形で神は支配している」と述べたことによります。これは、神を対象化してしまっている者からは出てこない表現だろうと思ったのです。
神がどうであるとかないとか、それを語りたいとは思いません。逆に言えば、どうとでも語れると思うのです。なにせ、全能ではない私には、全能の神を知りえないのですから。だからと言ってニヒリズムに陥る必要もなく、私たちは、神の光の射してくる方向は知りたいと願います。「こちらのほう」としか言えないかもしれないけれども、確かにそれは私たち人間からすれば、一定の方向に認めるべきではあろうかと思います。ただ、もし強く主張できることがあるとすれば、お互い人間同士の世界においでです。人間はこんな奴ではないか。人間はこういう誤りがあるとは思わないか。そんなことを、地の塵の上でじたばたともがくばかりです。しかしもしかすると多くの人が気づかない点について、言い出しっぺになる役割を頼むと呼び出されたとしたら、その務めは私に少し向いているかもしれない、という気はしています。