ついていっていいの?
2018年4月3日
現代立っているところから見れば、なんでヒトラーなんかに夢中になったんだろう、と批判できるかもしれません。同じことは、日本の戦時中の姿にも思いたい人がいることでしょう。
自分はそんなふうにはならないよ。とでも言いたげですが、詐欺の類も実はそういう心理を巧みに突いてくるのであって、確かに九回はひっかからなかったかもしれないけど、一回ガツンとはめられるなどは殆ど必然的なのかもしれません。自分は大丈夫という者ほどカモなのだとか。
後になって、自分が時流に乗っていたことに気づいたとき、人間はしばしば「あれは仕方がなかった」と漏らします。但し、「仕方なかった」と言った瞬間、実はそれが悪であったことを認めていたことになり、自分だけがそうではなかったこと、そして自分には責任がなかったことを弁明しようとする心理が暴露されてしまっています。
しかも、その後の成り行きや結果を知った上でそう言うのも確かです。過去に遡り、あの時の自分は別人であった、というような遠い目をして呟くのです。
さて、弟子たちはイエスに、何故ついて行ったのでしょう。ひょいひょいと、仕事も家も捨てて従っていったのです。現代ならば大問題でしょう。若い方はご存じないでしようが、昔(1979年〜)「イエスの方舟」が世間を騒がせました。おもに不遇な女性たちを引き連れて共同生活をするということで、マスコミが大きく取り上げたのです。やがて博多を拠点とすることになり、千石イエスと名のる千石剛賢氏は2001年に亡くなりましたが、従ってきた女性たちはいまも共に暮らしているのだとか。不思議と、キリスト教会はあまり大きく問題にしていないように見受けられるのですが、それは私が知らないだけでしょうか。オウム真理教とはまた性質が違い、人助けの側面があったのは事実のようです。
イエスと弟子たちの旅は、してみればこれと現象的には大差ないように見受けられます。しかし、イエスには明確に目的があり、その立場なるものもはっきりしていました。しかし弟子たちは、それを理解していた様子はありません。福音書によると、途中でメシアだと告白するシーンがあり、そこから大きく展開が変わるように見えるものの、基本的にイエスのことは誰も理解しておらず、逃げ出した末、蘇ったときにもまだ怪しく、その後聖霊を受けてすっかり事態が変わるという経緯があります。つまり、イエスに従ったとき、弟子たちは誰ひとり、私たちがいま福音書を見ているようには、イエスのことを見ていなかったということです。結果を知っている私たちから見ると、弟子たちの無理解はもどかくさえ思え、また愚かだなどと評することがありますが、たぶんとんでもないことでしょう。無理だったのです。見ているものが違ったのですから、いまここから私たちが見るのとは百パーセント視野が違うのであって、私たちがもしそこにいたら、弟子たちほどにも描かれず、問題外の存在であったに違いないのです。
それなら、何故イエスに従って行ったのか。弟子たちはイエスに何を期待していたのか。何か自分の目的に適うと思ったからこそ、ついて行ったに違いありません。自分の思惑や理想の実現に、賭けたわけです。このとき弟子たちの見ていたものは、イエスが見ていたのとは明らかに違います。それは「神の国」と称することができたものかもしれません。しかし言葉の定義がイエスとは異なりました。弟子たち――それは使徒も含み、また群衆めいた者もそうでした――は、現実の政治的世界を見ていたとしか考えられません。パンをくれる方、いまならば経済に貢献するということもあったでしょう。外交に長けて、他国の干渉から独立させる右翼運動の実現者という期待でもあったのではないでしょうか。奇蹟については様々な説明があるでしょうが、奇蹟の業をそのまま行ったとしても構いません。アニメか映画のヒーローが現実に現れたというだけのことです。座禅でジャンプした写真で宙に浮いた超能力だ、と科学者の卵たちがのめりこんだ程度の人間です。何かを見たら、ついて行くでしょう。統計的な意味がなくとも労働制の数字を示されたら信用さえするでしょう。むしろ現代人ほど、数字や科学的データに簡単に騙されもする弱点があるかと思います。
パウロは、そのような形でイエスに従ったのではありませんでした。十二使徒なり原始教会の直弟子やそれに近い面々とは違いました。イエスの傍にいた者は、自分の思考枠で勝手に期待したものをイエスに当てはめ、それが期待はずれになった辺りで見切りをつけ、逃げ去った経験をもっています。その後、イエスの真意を理解する霊が与えられ、変えられていった訳ですが、パウロはこの変えられる時の構造が些か違います。イエスに期待をしていたのではありませんでした。しかし――パウロは、イエスの真意であったところを、イエスとは関係なしに、期待していた可能性はあります。元々、イエスの思いと近い世界像を有していた。ただ、それがイエスと結びついてはいなかった。それがいつか、イエスの本当の意図なり願いなりその役割なりが、パウロの理想としていたものと重なるということを知ったことから、イエスを主と仰いだ……。
想像が過ぎたかもしれません。ペトロたちの挫折と、パウロの挫折とは、質が異なるというのは確かでしょうが、こんなふうに、イエスとの関係においても、構図が異なるであろうという私の見立てです。
私たちクリスチャンの中にも、どちらかタイプを選ぶことができるかもしれません。私はどうだろう。たぶん、パウロ型だろうな、というふうに思います。