復活は受動態
2018年4月1日
「イエスさまが復活したことを記念する」
実は聖書の原語では、復活という語は決まって「復活されられる」として使われています。受動態で主語が略されるときには、その主語は神か悪魔かどちらかであると読むとよいのですが、もちろん「復活されられる」の主語は神です。また、「神がイエスを復活させる」という表現もちゃんとあります。
受動態というと、英語を学び始めたとき、「驚く」という意味を「驚かされる」のように使うと聞いて、驚いた経験があります。後で教える側になったとき、その説明をこのようにしました。「人は、自分一人でいきなり驚くことがあると奇妙だ。何か私たちを驚かせるものがあって、それを見たり体験したりすることで驚く。つまり驚くとき私たちは、必ず何ものかによって驚かされている。英語を使う人にはそのような意識をいちいち抱いているわけではないけれど、そのような感じ方から言葉が作られているのだ」と。
もしかすると日本語では、「驚く」がもともと「目覚める」という意味をもつ言葉であったことから、自ら(自然に)目覚めるという捉え方を辿っていたのかもしれません。言葉を巡る文化的背景というのは、明確な理由が見つからないかもしれないけれど、なかなか面白いものだと思います。たとえば聖書を初めとするユダヤの文学的背景の下では、意味の上での主語を明示しない受動態は、実は神が主体(西欧語では「主体」と「主語」は同じ語であり、日本語が書き分けているのが実情です。
復活もその類と考えることができます。日本語では自分から(自動詞的に)復活するという捉え方をするようなのだが、聖書でいう復活は、自分からできるものではなく、何か他のものによってなされるものであるのではないか、と。だとすると、日本語でいう「復活する」とか「よみがえる」とかいう語だけで考えてもぴんと来ないし、解明はできないかもしれません。「よみがえる」となると、「黄泉から還る」という、古事記の文化を背景としているからなおさらです。追ってくる死者イザナミを隔てるイザナギの黄泉比良坂(よもつひらさか)の物語は壮絶です。若い方々、『古事記』文化も一度は読んで知っておくべきです。すると、自分の日常や考えの背景に、何があるかを知ることができるかもしれません。
さて、ギリシア語で「復活する」を表す語はひとつとは限らないのですが、ここでは、「起こす」「立ち上がる」という意味の語が使われています。逆に言うと、同じギリシア語が、場面によって「復活する」と「立ち上がる」と訳し分けられていることになります。もちろん文では実際受動態として「復活されられる」の形で使われていますから、「起こされる」「立ち上がらせられる」のような表現が取られています。どこまで使う者が受動態という意識をもっているかは別として、少なくとも語としてはそうなのです。
聖書では、何か行動を起こす様子を、「ペトロは立ち上がった」のように記していますが、こういうときに、復活の場面で使われる語も使われていることがあります。そう、私たちも、立ち上がれない時があります。傷つけられて、砕かれて、もう立ち上がれないと思うことがあります。襲ってくる不安の中で立ち上がれないままに毎日を過ごしている、ということもあります。そんなとき、復活について思うことは有効であることがあります。それは、立ち上がらせられることだからです。イエスを見上げ、復活のイエスと出会うとき、私たちは立ち上がるようにさせられるというのです。さあ、立て。その命令が、無理な命令なのではなく、さあ復活を信じなさい、と響くとき、私たちはもう立ち上がっています。自分ではとても立ち上がれないと嘆いているときにも、神が立ち上がらせてくださるのです。私たちは自分では能動的に立てなくても、神という主体によって、私たちが受動的に立つようにしてもらえるのです。
復活は、昔話でもおとぎ話でもありません。あなたが、どうしようもできないと思うときに立ち上がることができたら、それは復活のイエスとの関係の中での出来事だと気づくとよいのです。
このことは、十字架について考え直すとき、気づくであろう、とも考えられます。「主イエスは十字架につけられた」とクリスチャンもつい口にします。その意味上の主語は何でしょう。さしあたり、神であるよりほか読めません。しかしこの表現は、福音書には殆どありません。主語を明示している場合がたくさんあります。明示されていないとき、神が、で読んでさしあたり大きな不都合にはならないことでしょう。しかし、福音書を外れたとたん、このタイプの表現が急に多くなります。パウロがこのような「十字架につけられた」という言い方を多用するのです。誰が? 神が? それはそれでよいのですが、ここで私たちは、「私が」を主語にするような、そんな出会いが神との間になされることが求められます。私が、イエスを十字架につけた。私が、イエスを十字架に釘づけた。そう気がつけば、聖書のことばがいのちとなって私に注がれてくるでしょう。私がしたのだというリアルさの中で、私は今日、息をしているのです。