The Passion
2018年3月30日
はっきり言っておく。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネ12:24)
ギリシア人へ永遠の命が伝えられていく発端となった場面において、イエスはユニークな、「一粒の麦」というメタファーを口にしました。ともすればクリスチャンは、あまりにも安易に、時にロマンチックな語感の中で、「一粒の麦」と言います。私たちは、蒔かれた種は新たな命をもたらすのが当然だという科学的知識を常識としていますから、きっとそうなのです。しかしここでははっきりと、死ぬという描かれ方をしています。当時の常識は違ったのではないでしょうか。だとすれば、種というメタファーは、死と復活にまた相応しいことになります。イエスの語った、種蒔きの譬えもまた、少し違う角度から味わうことができるかもしれません。
十字架刑。最も残酷な刑だとも言われます。「パッション」という映画(2004年)が、そのシーンを極限までリアルに描いたということで話題になったことがありました。かなり悩みましたが、ついに見に行きませんでした。ただ、あるワーシップソングの背景にその映画のシーンが使われていることがあって、その数分間を見るだけで、その壮絶さに苦しくなりました。
私たち現代人にとり十字架はアクセサリーとして良いデザインかもしれませんが、要するに死刑台です。私たちの誰が、好きこのんで、首吊り縄やギロチンを胸にさげておしゃれをするでしょうか。少々きつい描写をしますが、十字架は見せしめの中で人間の尊厳を踏みにじり、どうしようもなく痛めつける極刑であったのです。
慟哭と絶望の中で、人が経験不可能な闇を経験し、イエスは十字架の上でこの上ない苦難を受けました。これを「受難」と私たちは呼びますが、それはとても口に出せないほどの残酷な刑でした。自分の体重が自分を苦しめます。内蔵がちぎれ、痛みと渇きがじわじわと死へと導きますが、しかし自分で死ぬこともできません。イエスが数時間で息絶えたというのが意外にも早かったという驚きが福音書に描かれていますが、元来ねちねちとサディステックに死が痛め続けていくのが常道だったのでしょう。
いくらこの先に復活が待っていると信者は知っているとはいえ、弟子たちが絶望に陥り、また復活のイエスが現れたところでそれをイエスと気づくことがないリアリティを、もっと考えてみたいものです。復活のイエスが分からないほどに霊的に目が見えないでいた、などと弟子たちを酷評する見解がありますが、私たちならばもっと無理かと思います。恐ろしくて声も出なかったという福音書の証言あたりが一番リアルだと思うのです。
急ぎすぎました。まだいまは受難です。地上生涯のイエスに会っていなかったのであろうと言われているパウロは、復活のイエスに会った後、この十字架のイエスを幻だか現実だかの中で、常に見ているような生き方をしているようです。パウロは果たしてイエスの死を目撃したのでしょうか。あるいは、そこに何か関係をしていたのでしょうか。聖書は沈黙しています。
ところで、英語で受難を the Passion ということについての素晴らしい研究を見つけました。これだけ突っ込んで調べてくださったことに、ひたすら敬服。たしかに、映画の字幕でpassion-playが「情熱プレイ」と訳されていたのはまずいですね……。
田中千鶴香(実務翻訳者)による The Passion の論考
その1
その2
その3
その4