開かれた述語へ

2018年3月28日

「私は」という主語で自分についてたくさんアピールする。ラジオ番組のゲストにそんな要求をしているものがありました。突然言われて、なかなか多種多様な述語はくっついてこないものです。ただ、述語がひとつしかない、という事態は、起こらないでしょう。自分の性質がただの一つに限られる、などとは。
 
それを日々感じている割には、私たちは「聖書は」に続く言葉を一つに決めようともがくことがあります。しかも、他人が自分の想定しない述語をつないだ場合、猛然と反対して相手を人でなしのように非難することすらあります。「神は」「イエス・キリストは」などが主語になっても同様です。
 
およそ定式化するということは、それ以外のものを否定するということにつながりやすいものです。福音書でイエスが立ち向かった律法主義というのがそうでした。確かに、旧約聖書の中には、厳格な律法の適用というものもあり、まさかそこまで、と思えるものもありました。また、法を守らなくてよい、という了解ができあがることにより、法が法でなくなるというのも確かなことでしょう。「律法」は「法律」でもあり「法則」「原則」です。日本語で「原則」というのは、例外を伴うものという前提がありますが、元来のこの語には、例外規定はありません。本来の意味で原則は原理に基づく法であり、例外はないのです。
 
そこで、定立された法を、そこから漏れる事例にも適用するためには、より包括的な法の成立が求められることになります。イエスは、文字により規定される法を超えた、愛と霊の法をより根底に置いたものと理解することもできます。
 
その新たな法則をもたらすものとして、十字架があり、復活があるとするならば、私たちはますますそこから目を離すわけにはゆきません。最後の食事を調え、弟子たちに告げるべきことを悉く告げ続けるイエスが描かれている、福音書に私たちはさらに没頭したい。パウロの解釈もよいけれど、いましばらく、福音書を通して、イエスの言動そのものに注視していく時を過ごしたい。「十字架のイエスは」の主語に続く述語は、人それぞれに、またその人が置かれたその場その時に応じて、無限の道を開いていくことになることでしょう。いまここにおいて、語りかけられる神の言葉が、私の心の中を掻き回して、深いところに沈んだ何かを上澄みのところにまで舞い上げてくれることを願います。
 
但しその時、イエスを十字架につけたのは、紛れもなくこの私だという立場をもち、貫くことがなれば、私の構築する物語は、すべてが無に帰すということだけは弁えながら。



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