オフ

2018年3月26日

絵本風のマンガの話です。男の子が蘊蓄をまくしたてます。女の子は向かい合って、それを聞いているような顔をしています。しかし、その心の中では「オフ」のスイッチが入り、何も聞いていません。しゃべりまくる男の子は満足していますし、女の子も不快は覚えません。二人の関係も問題なく続いています。
 
私たちは心のスイッチをいつでも「オフ」できます。いえ、切った後にまだ電流が流れていることもありますが、さしあたり見ないようにすることができるということです。
 
震災に苦しむ方々や地域に向けられたテレビカメラ。それを見守ることで、自分の中の善人を演じるかのようした後、テレビのスイッチを「オフ」にする。そうして、自分の日常生活に勤しむ。
 
教会に来たら、ああ神さま、と思う。イエスの十字架の話を聞いて、それを信じます、称えます、と歌う。そして、礼拝が終わると、友だちと楽しく笑顔で話す。教会を出るとき、スイッチは「オフ」になり、聖書の中の物語は終わりを告げ、一週間経つとまたそこへ来てスイッチを「オン」にする。
 
説教者も例外ではないでしょう。なんとか日曜日の「お勤め」を果たさなければ、と作文を考える。注解書やネットの情報を手に入れ、自分の感想を付け加えておけばいいかな、と手を加える。甚だしい場合には、この付け加えすらなくてもいいか、という具合に、後は私たちもこのようにしましょう、したいものです、と結んでおく。なんとか形になれば、後は信徒が「よいお話でした」と笑顔で言ってくることで、よい仕事をしたと微笑みを返し、ほっとする。誰も何も言って来なければ、特別差し障りもなかった、よい日常であったと思うことにする。そして、今週の他の「お勤め」を頭に思い浮かべてそれの対策を講じる……。
 
いえ、揶揄するつもりではないのです。実際にこんな信徒や説教者はめったにいないと思いますが、私たちに「オフ」があるのかないのか、ということを問うているだけです。
 
「生きているのはもはや私ではない」「いつもイエスの死をこの身に負うている」というパウロの言葉を、パウロは生きていたことは信じたいと思います。パウロはその点「オフ」しなかったのであろう、と。それは生真面目に、冗談も言わない、というところまで行っていたかどうかは知りません。しかし、この鎖までは真似しなくてもよいが、とジョークを飛ばしたほどの人ですから、普段から面白いことは言っていたのではないかと想像します。辺りを見て取り、手を結んだサドカイとファリサイの間に楔を打ち込むアドリブも利かせたような人ですから、状況をよく見て臨機応変に対応できる人だったと思うのです。それでもパウロが、十字架をつねに見上げていたことは本当であった、と思いたい。「オフ」はなかった、と。走り続けようではないか、と手紙で励ましていた人は、本当に走り続けていた。但し、祈るために立ち止まりはしたことでしょう。祈りつつ、走り続けていた。
 
私たちがもしも、長すぎる「オフ」を日常とし、教会に来ている時だけクリスチャンを演じているとしたら、それはまさに「偽善者」にほかなりません。しかしまた、それではいけないんだ、とこれを律法的に捉えるのもどうかしています。キリストは私たちと共にいる。聖書のことばは命をもたらし、ひとを生かす。そこに「オフ」はありません。私たちの心臓と脳の血流は、「オフ」にしたとたんに生命活動が止まります。殊にこの受難週の中では、「オフ」する暇はないのです。
 
尤も、ここまでこの文章を我慢して読んで下さった方は、「オフ」しなかったという前提があり、大丈夫だろうと思います。



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