酸いぶどう酒と十字架のイエス

2018年3月25日

「海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け」(マルコ15:36)
 
ぶどう酒は、晩餐はもちろんのこと、聖書の随所で活躍し、深い意味をもつ飲み物です。ぶどうの樹の性質や意味などもいずれ考えていきたいとは思いますが、今回は十字架の場面で出てきたこの怪しい「酸いぶどう酒」に注目します。海綿や葦の棒についてはいまは追究しません。
 
ぶどう酒は、殺菌技術が未熟であったかの時代、発酵した後のぶどう酒に酢酸菌が入り、アルコールが次第に酢酸に変化していくことが往々にしてあったと思われます。もはやぶどう酒とも、また酢とも呼べないようなものが庶民の口に上っていたことでしょう。ビネガーと呼ぶ現代のものがイメージとしては合うのでしょうか。
 
どうしてこれをイエスの口元にある者が運んだのか。これは痛みを和らげる麻酔の役割を果たすから、親切にもイエスに飲ませようとしたのだ、という説が有名です。しかし、先ほどまで「王さま、万歳」とさんざん嘲っていた者たちが、そんなことをするのでしょうか。冠を茨にし、笏のために葦の棒を与え、妙な服を着せて喜んでいた者たちの一味です。「王さま、どうぞステキなぶどう酒を」と、すでに酸っぱくなった安物の酒のなれの果てを飲ませて嘲っていた、と理解したほうが自然ではないでしょうか。この描写の流れからすると、そうとしか読めない気がするのです。もちろん、これは個人的な解釈ではあるのですが。
 
酸いぶどう酒の話に戻ります。ルツ記にも、また最後の晩餐の席にても描かれていますが、パンに浸すとされていた酢もまた、その類であった可能性があります。しかし、多数の動植物が描かれる聖書の中に、一切柑橘類が現れないことからして、こうした酢が酸味の中心であったとも考えられています。
 
ナジル人と呼ばれるグループがあり、神に対して誓って自ら聖なるものとして捧げたといいますが、ぶどう酒は口にしない掟の中にありました(民数記6:2-3)。ぶどうは、発酵しやすく、アルコール分をすぐに含むようになったからでしょう。この記録がぶどう酒の記録として世界最古であると言われています。但し、ノアがぶどう酒で酔っぱらって寝ていたとありますから、人類は古い時期からぶどう酒を知っていたのでしょう。
 
ここで、文法などに関心のない方は、次の長い段落をひとつ飛ばしてお進み下さい。
 
ある者が走り寄り、この酸いぶどう酒を十字架の上の「イエスに飲ませようとした」(マルコ15:36)と書かれています。しかしその前に、十字架につけられる直前、こういう場面も用意されていました。「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」(マルコ15:23)と。どちらも「飲ませようとした」と訳されていますが、ここに問題があります。十字架の前はこの動詞はアオリスト形です。アオリストというのは、その行為が持続しているか、あるいは完了しているのか、という点には関与しないという古代語特有の捉え方による表現で、基本的に過去の一回きりの動作として示すものです。恐らく、イエスが断ったがために、飲ませたという日本語だと誤解を招くと考えてのことだと思われます。しかし、「品物を贈ったが受け取らなかった」という日本語がありうるように、ここはとにかく差し出した事実を告げるアオリストを出してよかったと思われます。でないと、十字架の上でのこの動詞も同じ日本語になってしまい、混乱を呼びます。というのは、十字架の上でのこの動詞は、未完了過去だからです。未完了過去は英語で消えてしまった文法の考え方です。その動作が続いていたか、または反復していたかを表しますから、どうしても英語で、というのなら、過去進行形が一番近いものと思われます。イエスはこの酸いぶどう酒を結局飲まなかった、と示したいために「飲ませようとした」と無理に訳したとしか考えられません。その上、その次に「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた」(マルコ15:37)と「しかし」を強調しているので、飲まなかった印象を強く与えるようにしています。「しかし」としなければならないような強い語はここにはありません。この「de」は、確かに「しかし」と訳してよい場合もありますが、訳出するなら「さて」が最適である場合が殆どです。マルコの書き方では、イエスが最終的に飲んだか飲まなかったのか、は問題にしていないように見受けられます。むしろ、読者がそれをどう読むか、問われているのかもしれない、と考えてみましょう。何者かが、イエスの口元に酸いぶどう酒を飲ませようと近づけた。執拗に何度も口元へ迫った。描いているのはそこまでです。「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14:25)とまでイエスは晩餐の席で断言していました。この前には「アーメン」まで付いています。受け付けなかったのだろう、と想像する人は確かに多いだろうと思われます。ところがこれがヨハネになると、「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネ19:30)と様相が変わります。いわば「take」なる基本語により「受けた」を表しています。まるで矛盾しているようですが、ヨハネはここで「成し遂げられた」「完了した」「事は終った」「(すべて)すんだ」を続けています。これはまた皆さんの黙想に委ねるとしますが、ヨハネにとり、この語につなぐには、はっきりとイエスが酸いぶどう酒を取らなければならなかったということになりそうです。面白いのは、この「酸いぶどう酒」については4つの福音書すべてが触れていることです。よほどそれは書いておかなくてはならない事実だったのでしょう。それだけに、私たちもまた注目してしまいます。ともあれ、ここから分かるのは、英語ができれば聖書は分かる、と言い切れるものでもないことです。英語でこの未完了過去の捉え方が消えたので、英語圏の解説も、実のところ戸惑わざるをえないことがあるというわけです。なお、このあたりの文法については、田川建三『新約聖書・訳と註1』149-157頁が大変勉強になります。
 
この十字架上で、イエスが酸いぶどう酒を飲んだのか、飲まなかったのか。それは、共観福音書の記録だけではどちらか明確には分からないのではないか、と説明してきました。そして結局どうだったのか、は私たち一人ひとりに突きつけられている、とも思えます。
 
曖昧な訳が問題なのではありません。学説が、注解書が、どうであるのか、ではないのです。あなたが出会ったイエスはどうなさったのか。あなたの目の前で十字架に架かっているイエスは、何をなさり、どんな言葉をあなたに投げかけたのか。どのようにあなたに呼びかけたのか。問題は、そこです。百科事典に載せられていようが、あなたが出会ったイエスの事実は、あなたにとってはもちろんのこと、ほかの誰もが否定できることではありません。大切なのは、そこです。イエスは十字架の上で、あなたに何を告げたのでしょうか。告げているのでしょうか。
 
私たちは十字架のイエスを見上げます。そして何時間でも、黙想をしたいと考えます。日本語の訳が、一定の思い込みや意図を以て訳語を作っている場合、それは私たちの黙想を妨げます。意味が確定できなくても、むしろ自由な余地を残しつつ提供して戴きたいものだと思います。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります