批判と非難、そして黙想
2018年3月24日
ひとを批判することをしてはならない、とは思いません。このときの「批判」が「非難」ではないということを但し書きにした上で、ですが。日本語だと同じように感じるでしょうが、元来「批判」は「検討」に近く、よく調べ直すことと理解するときに、批判は改善や向上のために不可欠な過程であると見なせるわけです。
批判するときに、自分を例外に置くという場合に、それは非難に成り下がる、という言い方をしてみましょう。批判を、専ら他人を貶めることだけに用いる場合、つまりその批判によって、自分は正しい、ということを際立たせようとしている、あるいは自分が正しいことを前提しているとか、自ら気づいていなくても潜在的にそれを含んでいるとかいう場合、本来の「批判」の意味を保つことができなくなり、いわば他人の悪口を言うだけの代物となってしまう、というわけです。
自分の定めた法則、律法、掟に反すると考え、対象となるひとを一方的に見下し、神が審くように判決を下す。それはキリスト者にとっても罠となります。自ら神の側にいる、と思うとき、自分の言うことはすべて神に保証されていると錯覚し、そのまま自らが神になっていくという罠です。背負えないほどの借金を免れた者が、自分に借金をして返せない相手をこてんぱんにしようとしたたとえ話は、ほんとうに切実なのです。批判を自分の中で非難に変えてしまっていたことに、気づかなかったのです。
時に、自分では常識、当たり前だと考えていることが暴露されてしまうことがあります。自分ではこれが当然だと思う。しかるにあの人はそれに反している。ゆえに、あの人はだめだ。このような論法を自らの中の正義としてしまうことが、人間にはありがちです。ここに、神の律法なり新しい契約なりの聖書のことばというバックボーンが加わると、とめどなく自分が正しくなり、自分の気に入らない考えが悪であると決めてしまうことがあるのです。
それでも、私たちは見抜かなければなりません。「批判」はしなければなりません。自分で言い放つ言葉が、自分にも適用されるものであることを常に弁えつつ、互いにキリストのからだを建て上げるべく、適切に検討する必要がありましょう。なあなあで済ませていくこと、いつの間にか流されてそれでいいんだという空気に染まっていくこと、それよりは、時に痛い思いを抱きつつも、「批判」をすることが必要なのです。
神の言葉が語られているか。これまでずいぶんと、この点で私は甘く見過ぎていました。語る者が聖書にある悪をなしたが故に、神の言葉ではなかった、とするものではありません。それはたとえば、洗礼を授けた者が罪を犯した場合にその洗礼が無効となるのか、という問いかけとして従来から問題視されていました。結論は、無効となりはしないというのが一般的な考え方となり、私もそれでよいと思います。神の言葉を語る者もまた然りです。しかし、その人物の品行方正が、その語ることを神の言葉にするわけではありません。この点で、私はこれまで甘かったのです。
批判と非難の境界は、確かに曖昧かもしれません。しかし他方で私たちは、然りは然り・否は否、との励ましも受けています。これは福音であるのかないのか、神の言葉を語る器であるのかないのか、そもそもこの人は神と出会っているのかいないのか、こうした点は私の中で曖昧にせず、それでいて、どこからでも神の声を聞くだけのオープンさを心に構えながら、細い声を聞き逃さないように導かれていきたいと願っています。
いよいよ十字架への道を黙想するとよい時となりました。そもそもつねに黙想しているとはいえ、これからの一週間の中で、いま一度立ち止まり、十字架を見上げ、示される道を歩ませて戴きたいものです。いつでも、自分が放つ言葉すら、まず先に自分へ適用するという姿勢を忘れることなしに。