ヌミノーゼ
2018年3月12日
信仰は感情に含まれるものではありません。しかし、信仰が感情を含んではならないという規定もないだろうと思います。メッセージの中からも、神に探られて心を鷲づかみにされることがありますが、音楽は、より感情に響き心を動かす道であるらしく、賛美のとき、どうしようもなくだめになる――自分をコントロールできなくなる――時というのがあります。
3月11日だから、という説明もぴったりときません。この礼拝のために自分の時間や労力、才能を捧げた若者のことも背景にあったとは思いますが、そのためだとも言えません。好きな曲であった、というのは関係が深いとは思いますが、それがすべてではないような気もします。
もしかすると、手話を交えての賛美であったことは大きいかもしれません。手話は、意味を必ず強く意識しながら語る言語です。「苦しい」という語は、本当に苦しい表情を出すまでいかないと、使えません。「十字架」は、縦の杭そして横の杭とリアルに描きます。実に、「イエス」を表すためには、忙しいのですが、左右の掌に釘を打ってから高い位置に「主」を置きます。
つまりは、その賛美の中で目の前に現れていたのは、確かに十字架の主であったのでした。それを冷静に言葉にするということはもはやできません。何か「聖なるもの」(ヌミノーゼ)の体験であったのかもしれません。
手話の動きはブレーキがかかるもと完全に止まりはしませんでしたが、声は出すことができませんでした。涙がぼろぼろと出てきます。若い人ならきっと「やばい」と口に出している場面なのでしょう。
この風景を共有している人は確かにいます。いろいろな人の説教を聞くあるいは読むと、同じパースペクティブを有していると思えることがよくあるからです。「説教」に真摯に向き合っている方々の説教には、よくそれを感じます。他方、この風景を共有できない説教者もいます。きっと立っている世界や見ている方向が違うからそうなのでしょう。役割が違うから、手が足を非難することはできないでしょうが、同じキリストの血が流れるひとつの体であるのかどうか、という点になると、疑わしくなることがあります。
血は、いのちです。熱い血が自分の中を流れている、だから熱い涙も出てくるのだ。それは霊的なカタルシスであったとも言えます。聖霊の体験は、平安ないし平和をもたらすのです。