説教論

2018年3月4日

ひとつの教会で生活していると、そこで語られる礼拝説教のスタイルに慣れきってしまい、ほかにも形があるということに気が及ばないことがあります。何かの機会に他の説教を聞くと、違和感を覚えたり、引っ越して他の教会に通うようになると、どうしても馴染めなかったり。しかし、現代でも様々な説教の形があるのは当然です。
 
ドイツの説教をよく伝えてくれるのが、加藤常昭先生。その説教論はほんとうに教えられることばかりです。まさに説教を教会の危機からの打開策として始められた「説教塾」が日本各地に拡がり、説教について様々な研究や実践が営まれています。しかしその中から、平野克己先生のように、アメリカの説教の動向を紹介してくれる方もいて、私たちは求めさえすればいくらでも広い視野を得ることができます。もちろん、乏しいアフリカやアジア、中南米の説教といったところからの情報ももっと知ることができたら、いま世界で主がどう働いており、人間に何が期待されているのかについて、さらに適切な見方ができるものと思われます。
 
説教論は、説教する者だけが考えることではないと私は考えます。聞く会衆が語る者と共に「説教」を成立させるという考え方もありますし、そこに語られる言葉が神の言葉であるという信仰において捉えるならば、説教とは何か、を考えることには深い意義がありましょうし、何よりも、説教をどう聞くとよいのかという、命に関わる問題と向き合うことになるでしょう。説教を準備する牧師の苦労にも触れることができるかもしれません。
 
少なくとも、説教は、「聖書講演会」ではありません。聖書について解説をする場ではないし、自分の「意見」や「主張」をする場でもありません。もちろん、論文の朗読をすることでもないわけで、語られる「言葉」が、言葉以上のものであることを共に確認するのでなければならないと思われます。
 
ヨハネによる福音書はその冒頭で、「ことば」を中心に据えて、キリストの物語のオープニングとしています。その「ことば」は「言」などと工夫されて訳され、キリストを表すものと理解されてもいますが、20世紀の哲学が「ことば」を軸に展開してきたように、人間にとり「ことば」とは何であるのか、神の「ことば」とは何であるのか、多角的に、また重層的にも、問い続けなければならない必要を感じます。それが、毎週の「説教」の場でもあるのです。
 
私は、その「説教」の時空において、「出会い」という「出来事」が成るであろうというスタンスを取っています。「出来事」が「言葉」のままに成るのが、神の業だと言えるからです。そして「いのち」をもたらす場であれかし、と願うばかりです。しかしこれもまた、人それぞれの捉え方があって然るべきでしょう。今日、「説教」が、あなたにとって何であるか、期待して臨んで戴きたいものだと思います。



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