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2018年2月25日

有名な「姦淫の女」の場面は、福音書の中でも心に残る物語です。イエスの赦しをこんなにもドラマチックに描くことは素晴らしいものです。ところがそのヨハネ7:53-8:11は、〔 〕ではさまれています。何か意味ありげですね。聖書の最初の凡例(はんれい)に、「後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である個所」であると説明されています。つまりこれは元来本文にはなかったことがほぼ確定されている部分だというのです。
 
いったいどういうことでしょう。
 
古代エジプトのコプト語訳のあるものに、四世紀の写本と見られるものがありますが、ここにはこの個所がすっぽり抜けているといいます(メツガー『新約聖書の本文研究』)。しかし手近に読めるところでこの問題に相当に詳しく情報を提供してくれるのが田川建三『新約聖書・訳と註』のヨハネ福音書の巻です。それによると、他の写本とは著しく相違のある写本とラテン語訳写本などにはこの部分が記載されていますが、重要なパピルス写本などには欠落しており、中にはここをルカ21章の最後に置いているグループもあるというのです。中世後半になっても、このエピソードを置く位置が固定していなかったことが見られるわけです。
 
2世紀末には、この個所が知られていたことは確かめられるそうですが、古代のキリスト教関係の著作をたくさん記した学者たちの中でも、この個所に全く触れていない人が幾人もおり、広く知られていたのではなさそうだといいます。
 
ヨハネによる福音書の他の部分には用いられない語彙や表現が多くこの個所に出てくることからも、最初からこれがヨハネの福音書の中にあったとすることは難しい、というのが現代の多くの研究者の結論です。しかし、確かに古い伝承であることには違いなく、内容的にもこれを取り去ることに抵抗を覚える学者も多数いるために、〔 〕という形で本文中に残しているのです。
 
現行の聖書の章や節は、16世紀にフランスの印刷業者エティエンヌが、それまでいろいろ工夫されて付けられていた区分をひとつの形で出版し、それが広まったことから、この区分が基準になったのだとされています。もちろん原典にこんな数字があるわけではありません。しかし、その後に聖書の研究が進み、この個所のように当初は存在しなかった句が次第に明らかになり、その多くは、本文から削られることになりました。但し、古い文献を見るときに役立つために、たとえば新共同訳では、それぞれの巻の末尾に「底本に節が欠けている個所の異本による訳文」という形でまとめられています。ここに回すのに忍びない個所が、このヨハネヨハネ7:53-8:11や、マルコ16:9以降のように、本文の一部であるかのように〔 〕付きで載せられているという具合です。
 
このようなことを知ると、聖書っていったいなんなんだ、と思えてくるかもしれません。特に、聖書が神の言葉であるという信頼が大切であると理解するならば、この〔 〕付きの場所は神の言葉ではないのか、というような疑問が起こるかもしれません。このような不安は、パウロ書簡についても成り立ちます。「私パウロが……」と書かれている書簡のうちの幾つかは、パウロ本人の手によるものではない、と理解されているのが現在の聖書研究の成果です。当時は、そのような書き方をすることが常識化していたという歴史を聞いても、なんだかパウロの手によらないのであれば神の言葉ではないのか、と落胆するかもしれません。
 
けれども、パウロが神なのではありません。ヨハネが神だということでもありません。後から書き加えられたからそれは神の言葉ではない、と決めてしまうことは、恰もパウロやヨハネだけが神である、あるいは神の言葉を聞くことができた、とする思い込みによるのではないでしょうか。むしろ、一連の流れの中で、パウロとは違うという理解の下に、適切に解釈されていく可能性が新たになった、としてもよいのではないかと思われます。
 
こうなると、聖書がいまの形に決定されて基準(カノン)となった経緯やその権威についても問題になって然るべきであって、聖書は教会でこそ成立した、とするならば、プロテスタントが掲げた「聖書のみ」のスローガンも、結局は「教会が聖書を定めたから教会の伝統が優位だ」とする考え方を退けることはできなくなります。単純にプロテスタントとカトリックの対立構図を片づけることはできません。
 
むしろ問題は、私あるいは私たちが、聖書とどう向き合うか、となります。聖書は私(たち)に呼びかけます。私(たち)はこれに応えます。向き合っていなければ、応えることはできません。神はつねに人間に呼びかけているにしても、それに応答するというのがクリスチャンの生き方であるといえるでしょう。
 
言葉が存在と一致する、そこに古くから人間は「真理」というものを理解しました。神においては、言葉はすべて現実存在となります。だから神は真理だというのです。それに対して人間は、言葉と存在が一致しません。口先で言ったことが現実化するわけではないのです。そこへ、神から受けた言葉が人間の言葉と重なるとき、それは現実存在となっていくことができます。それは単なる物ではないゆえに、「出来事」と呼ぶ人たちがいます。神の言葉が、人間から語られるときに、出来事となる、というのです。そして、説教は、神の言葉が出来事となるための取り次ぎであり、それを受けた人々が、また新たな出来事としていくために遣わされていくことになります。それは、もしかすると、人間だけで何かしようとしたときには決してできないような事であるでしょう。そのときそれは「奇蹟」と呼ぶに相応しい事であると言えます。
 
神の言葉、言い換えればイエス・キリストが、それに向き合う者を通して出来事となり、奇蹟を起こします。人の思いを超えた出来事が、いまここから、私(たち)を通して現実化していくということ、これに信頼を置いていきたいとものだと思います。



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