パンを求めて

2018年2月18日

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(ヨハネ6:24)
 
群衆は、ガリラヤ湖のまわりを歩いてイエスを探します。一度パンの奇蹟で満腹したことに味を占めて、追いかけるのです。ガリラヤ湖の大きさは、最大長が21kmほど。アバウトな感覚ですが、博多湾を眺めた風景とほぼ同じくらいです。ヨハネ伝の記述では、パンの奇蹟の場所が明記されていないのですが、書かれてある状況から判断すると、少なくとも西南学院大学から和白あたりまで探してカファルナウムのイエスのところに押し寄せています。またパンをもらおうとしたとして、これだけのエネルギーを使っているのです。そんなバカなことを人々がするだろうか、との疑問も湧くでしょうが、私はつい最近、その答えを目の当たりにしておりました。
 
先般、ある金曜日のこと。通塾バスが到着しない、というトラブルを体験しました。生徒を迎える巡回バスが、渋滞した道で立ち往生し、授業時間に間に合わないというのです。車が多いという夕刻の時間帯ではありますが、当然普段から計算済みです。確かにびっしり道路は車が動かず並んでいます。これは事故でもあったのか、と案じましたが、事故情報をネットで調べても分かりませんでした。ただ、JRの駅三つ分、激しい渋滞がずっと続いていることだけが分かりました。
 
そこへ役立つのがツイートです。すると原因が明らかになりました。渋滞の先頭は吉野家でした。吉野家に入ろうとする車が延々と道を塞いでいるというのです。吉野家に何故人がそんなに? これも調べればすぐに分かります。スーパーフライデーということで、ソフトバンクのスマホのユーザーが、吉野家の牛丼を無料でもらえるという特別な日だったのです。
 
もちろん無関係に渋滞に巻き込まれた人々は迷惑です。5分で走れる距離が1時間かかったなどというツイートがいくつもあり、その通りなのだろうと思いました。しかしながら、恐らく食べる方も、何時間という単位で並んで待っていたはずです。
 
380円の牛丼のためにそれだけ待つというのは、考えてみれば割が合わないものでしょう。それが払えないような人々であるはずがありません。なにせ車に乗っているのですから。それを待つ間に消費するガソリン代を引けば、その無料の一杯を得ることがどれだけの得になるのか、甚だ疑問です。けれども、「ふだんなら金を払わないと得られないものが、とりあえず無料でもらえる」というだけの事実を最優先させてしまう心理が、群衆の間に働いたのでしょう。この現象は、各地の吉野家のある道路で起こっていたことが後から分かりましたから、この心理も普遍的なものであったと思われます。
 
誰かの迷惑になろうが、そのために自分の時間を無駄に使おうが、もう目の前に待つ無料の牛丼の言いなりになってしまっているのです。わずかばかりの目先の得、いくらかの数字の上での利益を最大の得だと錯覚して、それのためにはどんなに大切なものを失っても構わない、とする心理――罪と言ってもよいもの――が人間に隠れているものか、そしてそれがいつ頭をもたげて人の全体を支配してしまうものなのか、それを垣間見ます。いえ、垣間見てそれでよしとする訳にはゆきません。
 
イエスは、自らを命のパンと言いました。日本人が「ごはん」と呼ぶことで、食事全体を指すイメージをもつように、かの地で「パン」と呼ぶことで、食事すべてを意味しているものと理解しましょう。
 
「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。」(コリント二3:2-3)
 
「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」(ヘブライ5:12)
 
固い食物と対比されているこの乳は、かつて出エジプトの時にイスラエル民族に対して、約束のカナンの地が「乳と蜜の流れる地」だと希望をもたせていたときの乳を連想させるものだとすると、新約聖書の筆者たちは、かつての律法による契約だけを頼っている時代ではもはやなくなり、いまやイエス・キリストというパンによる救いがもたらされたのだと言っているようにも聞こえます。イスラエルのパンは、イースト菌のない過越のパンであるとすると、ある意味で硬さがあります。しっかりした隅の親石としての土台である硬さです。また、受け容れられずにつまずくことの多いパンです。しかし、イエスに出会いその言葉を与えられ、息を吹きかけられた者には、必ずや負いやすい軛を与えてくださる、そういうお方でもあります。
 
あなたの求めるパンは、どんなパンですか?




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