旧字体が読める恵み
2018年2月12日
学生時代、京都の古本屋をよく巡りました。東京ほどではなくとも、京都には古本屋があり、しかも本当に古いものがあります。いま若い人たちが古本と聞くと、比較的新しい本が安くてにはいるチェーン店を想像するかもしれませんが、本来古本屋と称するところは、戦前や明治期、どうかすると江戸期の書を狭いところに押し込んでいる、あの独特のにおいのする空間をいうのでした。
哲学には、最新の欧米の研究を見るべきという分野もありますが、私はどちらかというと古くさい基礎の把握で手一杯だったので、戦前の名著と言われるものには目を通したい気持ちがありました。また、当時若い人々が教養的に取り組んだ思想世界には興味がありましたので、西田幾多郎の『善の研究』・阿部次郎の『三太郎の日記』・倉田百三の『愛と認識との出発』といったラインナップ(懐かしいと言ってくださる方もいらっしゃることでしょう)にはすぐさま手を出す始末でした。
これらは新しい版としても出され続けていますが、えてして古本屋に並んでいるものは、いわゆる「旧字体」が使われていました。私は幸い、あまり抵抗なくそれに慣れていきましたが、最初読みづらい字も確かにありました。とにかく読むためにはこれをパスしなければなりませんから、いつの間にか馴染んでいったようにも思います。お陰で、いまでもキリスト教関係の古典的な書を見出したとき、何の違和感もなしに手に取れることは、どこか特権めいた思いになれるような気がします。実のところ、半世紀前の本でも、旧字体で書かれてあるというものがあるからです。
幼い頃、面白がって姉に仕向けられたのかどうか知りませんが、小倉百人一首を覚えていました。一度忘れかけましたが、小学校高学年で学校で取り上げられたとき、思い出すかのようにして何の苦もなく覚え直したという経緯もあります。お陰で古語も馴染みました。意味は分からずともそらんじることができる、というのは大きなことだと思います。いま語学や古文をどうかすると教える場合にも、とにかく声を出して覚えることがまず効果的だと迷わずアドバイスできるのも、そうした体験によることなのでしょう。
戦後の『讃美歌』の歌詞は文語調のものも多いのですが、現在新しく生まれ使われている賛美の本も、古い訳のまま使われているものが少なくありません。言葉が難しいと言われることがありますが、古文調は少ない字数の中に情報を凝縮する力が口語より強いせいもあるのでしょう。尤も、たとえば英語の原詩を日本語に訳したという讃美歌の歌詞も、英語の情報量には遠く及ばず、ひどく省略してしまったものや、中には全然印象の違う内容に書き換えられたものも多く、原詩のあるものはどこかで原詩を味わうとよいが、とは思っています。英語の古い讃美歌も、いまロックサウンドにアレンジして歌い継がれているものがたくさんありますから、やはりよく練られた良いものについては、単純に古いと一掃するようなことはもったいないと思われます。
若い方々へ、何も復古調を求めるつもりはありませんが、旧字体にどこかで一度取り組んでみようと構えておくと、自分の世界が拡がること請け合いです。本の中では、時間空間を超えて思索者と交流することができます。その道が増えるということです。実際、インターネットの「青空文庫」を開くと、著作権の切れた作品や文章が、いくらでも無料で手に入るようになっているのですから、知的好奇心は、閉ざされてなどいないとお勧めしたいのです。
そうそう、今の教会で使われる語の中でも、「冒涜」や「祈祷」は普通簡略化されて打ち出されるので、少し寂しい気がするんですがねぇ……。