危機感からの伝道

2018年2月10日

キリスト教会の未来が懸念されています。教勢の拡大どころでなく、そもそも教会に来る次の世代が途絶えてしまうのではないか、という心配です。
 
以前から将来的なことは推測されていたのですが、まだ先のことだと実感がなかったのが大方の様子でした。これでは国の借金や保険や年金の問題と構図が同じです。政治への批判も一部の教会では多いのですが、先行きへの見通しの甘さは教会も同じと言われて仕方がありません。
 
いやいや、信仰の歩みなのだ、信じることだ、などという声もありました。人数の問題ではないのだ、と聖書から根拠を探して訴える説教もありました。確かに、数を集めるのが目的ではないのは事実でしょう。一人ひとりと向き合い、そのひとつの魂のために祈り尽力するというのが伝道の本筋であることは間違いないでしょう。あるいは開き直るかのように、高齢者の福音というテーマが大切だ、と掲げる教会もありました。けれども、ここへきて、限界集落あたりが現実化してくると、人口減少を含め働き方改革や消費社会の見直しなど、社会が一斉に縮小方向へのシフト変換が急な動きとなってきたように見受けられます。
 
そこで、教会も、お尻に火が点いたかのように、危機感を募らせる様子が目につくようになってきました。本当に、このままいけば日本のキリスト教会は絶滅するのではないか、というシナリオが現実味を帯びてきたというのです。
 
価値観の多様化のために仕方がない、と力なく笑う人もいました。少子化だから子どもが来ない、と言い訳にならない言い訳をする人もいました。子どもなんて周囲にいくらでもいるというのに。受験制度や塾のせいにする声もありました。しかし結局、教会が社会に影響を与える力を失ってきたのは事実です。病人を助けたり、孤児を育てたり、福祉事業に仕えたりする個人や団体もかつてはいて、社会的認知もありましたが、果たして最近はどうでしょうか。もちろん、地道な活動がたくさんあるのは事実ですが、社会的に一定の認知を受けているとはいっても、それが人々を巻き込むものとしてであるよりも、あなたがたは立派だね、で終わるだけのものであるなら、教会へとつながる契機にはなりません。あるいはまた、信教の自由を根拠に裁判を起こしたり、政権を徹底批判したりすることが、時に勝手な振る舞いのように見えることもあったでしょう。また、キリスト教世界自体が、どこかエリートめいたグループの、社会の周辺のよそ者的な営みとして位置づけられているのが、おおよそキリスト教の占める場所であるのかもしれません。
 
そうだ、本気で伝道をしなければ。ようやくかもしれませんが、そのように立ち上がる人や声が起こります。確かに、その通りです。その気持ちは分かります。しかしこれまでも、伝道が必要だというふうには、実はずいぶんと言われていたのです。それなのに、実を結ばなかったからこうなりました。あるいは、それほど本気で伝道をしていたのではなく、仲間で仲良くイベントを行って互いに気を遣い合っていた、という場合もあったかもしれません。
 
いえ、誤解なさらないで戴きたい。批判をしているのではないのです。間違いなく私もその一人なのですから。それでいて、自己批判をしてそれで責任が果たせるというような性質のものでもないし、また、根本的に、これは神の業でもあるという構造が、どうすればよいかについての対策を複雑にしています。
 
そして、こうすればよい、というような方法がこれまでに見出されていたのなら、誰も苦労はしていないし、こうはなっていなかったことになります。ただ、一部若い人々を引きこんで勢いのある教会やグループがあることも事実です。そうなると、キリスト教会が絶滅するのではなく、淘汰されようとしていることになるのかもしれません。となれば、なおさら自分の教会がそうはならないように、と焦る気持ちにもなるでしょう。それでまた、伝道をしなければ、と気が逸ることになるわけです。
 
どこかで、教会が仲良しグループになっていた、という反省はすべきかもしれません。居場所を求めていた外れ者が集い、自分の居場所を見出す。その居心地の良さの中で、互いに許し許された教会生活を送ることで安心ができる。そうした日々を楽しんでいたのだとしたら、やはりぬるま湯に浸かっていたと言われても仕方がないでしょう。
 
悲観的なように聞こえたらすみません。ただ、方法論でもないし、ただ祈れば展開が変わるとするのがよいわけでもこの場合はないでしょう。いまここにいる私(たち)が、与えられた歩みを誠実に続けることの大切さに徹するなら、それもまた真実であると思います。しかし、なんとなく不安を覚えるよりは、問題点を挙げるということで、新たな次の一手が見えてくるかもしれない、と考えたのです。私の考えの至らなさは大いに突いて戴いて構いませんが、むしろ、だったらこうすれば、とか、こうしていきたい、とかいう道を見出すための、反面的な道標にでもなればよい、と思って呟くことにしました。
 
たとえば、伝道だ、と息巻くのではなく、集った一人ひとりがほんとうにいきいきと生かされる説教また教育がなされることで、自ずから伝える、あるいは証しが(たとえ意識しなくても)できている、という出来事が成立するという方向性を見つめることも、ひとつの可能性ではありますまいか。



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