立春には卵が立つ
2018年2月4日
立春には卵が立つ。こんな都市伝説のようなことが世界を駆けめぐったのは、どうやら第二次世界大戦後すぐの頃のことであったということです。私の小さなころには大人がよく言っていましたから耳に覚えていました。
岩波新書の名著『雪』を書いた中谷宇吉郎氏も「立春の卵」という題の文章を遺しています。世界中から、立春に立った立ったという報告が集まったのです。科学者らしくかなり詳しくそうした情報を正確に記した後、「しかし、どう考えてみても、立春の時に卵が立つという現象の科学的説明は出来そうもない」と判断します。そして「結論をいえば、卵というものは立つものなのである」と言い、綿密な計算を施します。その結果、「卵は立つのが当り前ということになる。少くもコロンブス以前の時代から今日まで、世界中の人間が、間違って卵は立たないものと思っていただけのことである」と断言します。殻の凸凹の中で三点がバランスを取れるように重心との位置関係が成立すれば、立春かどうかに関係になく卵は立つのである、と。
中谷氏は、「どうして世界中の人間がそういう誤解に陥っていたか、その点は大いに吟味してみる必要がある」と言い、人類全体に盲点があるとして、「しかしこれと同じようなことが、いろいろな方面にありそうである。そして人間の歴史が、そういう瑣細ささいな盲点のために著しく左右されるようなこともありそうである」と告げています。
そもそもこの問題は、かつてコロンブスが、大陸発見など誰でもできると言われて卵を立てよと人々に命じ、誰もできないのを見て、卵の尻を少し割って立てて見せ、人の気づかないことをして最初に敢えてすることの難しさを指摘した、という逸話に基づいていると思われます。
さてこうなると、聖書の奇蹟はどうなのか、と問う方々がいらっしゃるかもしれません。聖書の奇蹟には科学的な「タネ」がある、と確信していろいろ説明を加えようとする人々がいます。もちろん端からないと決める人もいます。聖書記者の創作だとしてしまう主張は数知れず、聖書記者が言いたい思想の象徴的な表現なのだと理解する考えがいまは多いかもしれません。あるいは集団幻想であったなどというからくりを説明する人もいました。また、ヨハネ文書でいう「しるし」という語のもつ意味を解釈して捉える見方も検討に値するでしょう。
手話で「奇蹟」は、「普通→違う」と2つの動きで表現します。「普通」と違う出来事であったというこの手話の理解は示唆に富んでいます。奇蹟を、手品のように考える必要はないし、説明できないから須く創作だと定める必要はないように思われるのです。もちろん、その場合の「普通」とは何か、ということが問われます。そこにまた解釈の幅ができることでしょう。私たちが、自分が当たり前だと考えていることを「普通」としましょうか。因果的に、論理的に成立する結論を「普通」としましょうか。これは限りなく「必然」に近くなります。世の中がこの「普通」だけで営まれているとすれば、そこに「自由」の働く余地がなくなる可能性があります。こうして自由論がそこに伴うようにさえなりえます。
考えてみれば、「愛」は「普通」ではないように見受けられます。理由があるから好きになったのを、愛とは呼ばないと思います。神が私たちを愛してくださったことも愛ですが、私たちの側から捉えても、愛と口にしたり愛を考えたりするときには、これこれの理由の故に愛する、という表現はしないだろうと思います。私たちはいつの間にか、愛を極めて自由なものとして想定しています。世の中に愛などない、とするならばまた別ですが、愛なるものをどこかで認めているならば、自由を認めているに違いないと思うのです。だから「愛」は「普通」とは違うのです。私たちが愛というものを思う浮かべているそのこと自体が、手話から教えられる捉え方によっては、「奇蹟」にほかならなくなります。
さあ、ここからは理論ではなく、私の、そしてあなたの、生き方です。あなたは「愛」という「奇蹟」のない世界をこれから生きていくおつもりですか。私は、かつて「愛」を詐称していた世界に生きていました。私には「愛」がありませんでした。ある意味でいまもなお、私にはありません。ただ、私の外には「愛」が確かにあります。あることを知っています。その方に出会ったからです。それ故に、私はそこからの歩みで、いくつもの「奇蹟」を経験してきました。「普通」と思っていたことからすればありえない、考えられないみことが次々と起こり、振り返ればそうした道をひた歩いてきたのでした。
私の卵は、立たないこともありますが、立つこともあります。そしてそれは、立春という条件に関係なく、神の自由の中での出来事となります。ですから奇蹟を目撃し、体験しています。聖書に記されている奇蹟も、その証言であったのかもしれない、とぼんやり考えています。