子どもメッセージ

2018年1月29日

子どもと共に、長い間礼拝をしてきました。我が子と他の少しの子どもたちを前に、礼拝を担当してきた時期を長くもちました。
 
いわゆる教会学校は、多くの教会で、10:30の礼拝の前に行われてきた歴史がありますが、ライフスタイルや教会の事情などもあって、次第に10:30からの一般礼拝に合流するという形をとることが行われるようになりました。私のいた位置は、その走りだったと思います。礼拝の前半は大人も子どもも共に過ごします。そして牧師の説教の間は、別室で子どもたちは子どもたちのための教室を過ごします。これは「学校」ではなく「礼拝」である、というのが私のモットーでした。
 
子ども向けのメッセージを、全員いる中で行う、ということもありました。これは私だけでなく、幾人かで――訓練のためにも――担当してもらいました。その後、牧師の説教と並行して開かれる子ども礼拝では、私がオリジナルのワークシートを作ったり、楽しい企画を考えて過ごすなど、子どもに相応しい礼拝の時をもつようにしました。
 
子どもの視線からすれば、そこで聖書の話をする大人は、やはり先生です。牧師を見る眼差しと、CS教師を見る眼差しに違いはありません。子どもたちの前に立つということは、自分はキリストとして立つことであるし、また目の前に与えられた子どもたち一人ひとりがキリストであるという思いで担ってきました。
 
子どもメッセージのときには、そこに大人がいる場であったとしても、子どもだけしか相手にすべきではありません。周りの大人に配慮をしようとか、その機嫌をとろうとか、そんなことはしてはいけません。子どもが主役です。いえ、そこには本来子どもしかいないのです。大人がいるとしたら、すべて野菜のようなものです。あるいは、大人もすべて子どもとしてそこにいて聞きます。すべての人が子どもなのです。
 
子どもにはずばりと切り込まなければなりません。まわりくどい注釈は不要です。子どもには、本筋と横道との区別が簡単にはつきません。言われたことがすべて主軸となります。幼稚園の子どもの様子を見たことがある方はお分かりのとおり、聞けという場面では、子どもは真剣に先生の一言一言を聞いています。福音をずばり語る。しかも、緊張できる時間は限られています。年齢にもよりますが、5分で何ができるか、そこが勝負です。例外への配慮や但し書きめいたものを言う暇があったら、本筋の福音をずばずばと送っていくようにします。
 
それに、子どもには、大人以上の豊かな想像力があります。絵本の読み聞かせは、読み終わって絵本をぱたっと閉じたら、そこから教訓のようなものを付け加えるなどといった無用なことをしてはいけないように、ずばりと福音を告げきったら、妙なまとめや念を押すような付け加えはしません。福音がずばりと語られていたら、あとは子どもの中でそれは反芻され、熟成されます。そのとき何を食べたか分からないようなメッセージであったのなら、それは語るほうが拙かったというだけです。子どもの魂の中に送られた福音の言葉は、子どもの中で、大人が心配するよりももっとすばらしい形で、いのちとなります。また、そのことを信じて、語り終わらなければなりません。
 
子どもと差し向かいになること。要点を言えば、そういうことになります。大人が子どもたちの目を覗き込んで逸らさない、そこから初めて、大人の中にあるいのちが伝わっていくのです。
 
なお、当然のことですが、こうしたテクニックめいたものを至上とすることはできません。私の狭い貧しい経験から感じたことに過ぎません。担当なさる方とその子との関係がどうであるか、そこが肝要です。大人の側からの思い込みによる関係ではなく、まことにどういう関係ができているか、そこに、言葉が通じる場ができます。子どもは表向きの言葉には騙されない場合があります。動物的というのは言い過ぎであるにしても、この人が自分の敵か味方かを本能的に判断することがよくあるのです。言葉では隠せない、心の中のものを感じ取るのが子どもです。だからまたなおさら、言葉でお茶を濁したり周りのおとなにへつらうようなことをせず、そこに与えられた子どもと向き合うことが重要になるというわけです。



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