教会学校について

2018年1月25日

もう5年も前のことですが、いまいる教会とは別の教会にいるときに、ある場で語った内容の原稿です。教会学校(CS)についての考えですが、何か似た状況にある方で、何かしら参考になったり、力添えになったりする場合があるかもしれないと思い、また反面教師になってもよいと思い、公開することに致しました。もちろん、特殊な環境における事情にも触れていますし、思い過ごしや誤認もあるかもしれないことをご理解の上、お願いします。抜粋してお届けします。
 
 
そもそもCSとは何でしょうか。Church School、いわゆる「教会学校」です。これは、教会が運営する学校組織といったふうに聞こえる言葉かもしれません。日本語では語を結合させたとき、後のほうがメインになりますから、この語は「学校」ですよ、と告げている感覚があります。
 
しかし他方、子どもをただ遊ばせているだけ、というように見えるケースもあります。親が礼拝に出ている間の「託児所・保育園(ナースリー)」となっているとすれば残念です。
 
また、子どもの立場から捉えてみると、「教会は楽しいところ」「教会に自分の居場所がある」という感覚が具わることが望ましいのはもちろんです。自分が必要とされているところ、自分が安心できる場所、そんな思いは、たんなる知識では身につきませんし、また、すべてが遊びであっても感じ取ることはないでしょう。
 
そこで、このCSを、「礼拝」であると認識するところからスタートしたいと願います。今の教会学校を、子どものあり方に見合った「礼拝」が別室で同時に開かれている、という観点で捉えたいと思うのです。
 
礼拝は、神と、神の民との対話でした。また、神の民の当然の務めでした。聖書の中で、子どもはしばしば神の民に含まれて数えられています。旧約聖書には、イスラエルの民がピンチの時、民が神の前で誓い、また祈るようなとき、その場によく子どももいたことが記されています。神に愛された民の中に、子どもは確実に含まれています。新約聖書で、イエスが子どもが近づくことを拒まないばかりか、抱き上げて祝福していることは、あまりにも有名です。
 
礼拝という場から、子どもを除外してよいものかどうか。理念的な追究ではありますが、たんに私たちの「静粛な」「厳粛な」という思いだけで片づけず、聖書はどう教えていると思われるか、まだ学ぶ必要があろうかと思います。
 
時期尚早であるかもしれませんが、理想的な形態として、大人も子どももいっしょに会堂での礼拝に加わることができたらという願いを掲げます。さしあたり伝道礼拝のときには子どもも会堂での礼拝に参加するという形を設けられたらということを考えています。つまり伝道礼拝は、子どもたちへの伝道でもあるということです。
 
 
月に一度の合同礼拝。それは、CS教師の問題を回避するための、やや苦しい方法ではあります。また、教案誌のカリキュラムがひとつ飛ばされることになるので、その解決も図らなければなりません。しかし、行き詰まった現状を動かすには、今のところこの姑息な手段しか思い当たりません。
 
そこで皆さまへお願いがあります。CSを、偶にでも担当して戴けませんでしょうか。CSは神を礼拝するひとときです。その司式を務めて戴けませんか。自分にはできないとか、教育の経験がないとか、そうした心配は無用です。子どものために、いわば一人の牧師として、礼拝を遂行して戴きたいのです。お孫さんに、「聖書はね……」と語るような調子であってもよいと私個人は考えます。福音を伝えよう、神を礼拝しよう、という思いを、子どもたちはちゃんと感じ取ります。
 
また、CSとは、全能の教師が無知の生徒を教え諭すような場ではないと私は理解しています。子どもに語る中で、自分が教えられます。自分の襟が正されます。礼拝の中で、自分に初めて見えてくるものがあります。私は以前の教会で、殆ど毎週教会学校を礼拝会堂と別室で担当しながら、常々そこが礼拝であるとし、同時にまた、子どもたちから教えられつつ、聖書を体験し続けることができました。 
 
讃美歌の歌詞は今のままでよいのか、若い世代に訴えるメッセージや機会はないのか、そんなことも含みながら、教会の将来という観点からも、子どもの礼拝について、お考え戴き、お祈りくださり、また、何かしら行動を起こしてくださるよう、厚かましいながらも、切実にお願いする次第であります。



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