偽善者
2018年1月14日
善良であるかのように偽る。これを偽善という。旧約聖書では、詩編26:4でかろうじて見られます(口語訳・新改訳)が、これは「隠す」ニュアンスが強いようです。新約聖書では、特にマタイによる福音書を中心として(マルコに1度、ルカに3度のほか)、ファリサイ派や律法学者たちをイエスが「偽善者」と呼びました。英文字表記ですがギリシア語で「hupokrites」となり、英語の「hypocrite」の元の語であることは一目瞭然です。
元来「役者」を指す言葉として使われていましたが、とくに主役を指しました。ソクラテスの時代にも演劇が人気でしたが、当時の劇は、仮面をかぶって演じていたので、仮面の下に別の顔をもつ、という様子から偽善者という考えを重ねたのでしょう。また、そのようにして顔を「隠す」ということを表す語に由来しているともいいます。まさに、今日のメッセージの中の小説の例そのものですね。心に残る、励まされるお話でありました。
なお、この仮面を表す後のラテン語が「persona」で「ペルソナ」と読みます。仮面をつけたその登場人物を表すように変化し、人や人格を表す語として使われるようになりました。お分かりのとおり「person」という英語になりました。これがキリスト教神学では、共通な漢字をもつ「位格」という意味で用いられています。いわゆる三位一体の父・子・聖霊の三つの位格のことです。
さて、偽善者と日本語で訳しましたが、日本語だと、どのような語感があるでしょうか。善いことをしているが実は腹の中は違う、というふうでしょうか。善いことをしているが動機が不純だ、という時にも使うでしょうか。見た目では社会的に善いことをしている人間だと思われるかもしれないが、本当は自分の得になることを計算しているんだよ、いう感じでしょうか。人間、そんなに純粋な善なんかあるわけないじゃないか、とうそぶくところから、素朴に善いことをしている人や団体をこき下ろそうとする者はどこにでもいるものです。先週の朝ドラ「わろてんか」をご覧になった人は、栞さんが関東大震災の被災者に救援物資を送ったことを「売名行為」とマスコミが書き立てるシーンに憤ったことかと思いますが、あの世間の送った矢が「偽善者」というレッテルだったわけです。どんな善意の背後にも、人は何か自分の企みがある、と、「他人」へ向けては平気で突きつけるのが並の人間です。それほどに人には善がないことを知っているのならば、原罪の考え方を認めるわけですから、キリストの救いを受けるとよいのに、とよく思います。その矢を自身に向けて放つといい。そう、自分もそうなのです。いえ、自分こそまさにそうなのです。自分の中には善は何ひとつない。キリストとの出会いは、そこからスタートします。
ところで、マタイによる福音書で繰り返し使われる「偽善者」を表す語は、それとはまた少し違うような気がします。ファリサイ派や律法学者たちは、腹の中で自分が偽っているという感覚を全くもっていないからです。それが偽りであることを見破っているのは、ある意味で神のみです。本人ですら、自分は善いことをしているとひたすら信じているはずです。「確信犯」という言葉は、正しくはその意味で使います。間違いと知ってやることではありません。自分では自分が正しいと思い込んでいる状態をいうのが「確信犯」という語の意味です。律法を自分は守っており、律法を守っていない、あるいは守れない者たちはダメな奴らで、軽蔑すべき存在だと認識しています。律法のことをろくすっぽ知りもせず律法を守って生活していない者たちのことをファリサイ派や律法学者たちは、「地の民」と呼んで見下していました。その様子は、マタイによる福音書のあちこち(6-7章・15章・22-23章と24章)から窺えます。
自分は正しい。そう判断する主体は、まさにその自分。自分が自分を正しいことをしていると判断する。自分が自分を裁く。この場合は自分を無罪とするということです。しかしそれは、自分を神としていることにほかなりません。自分の上に立つ裁き主を置かずに、自分が最高の権威になる。これが、自分を神とするということです。まして、その権威を、他人に向けて発し始めたら、もう収拾がつかなくなります。他人の能力などを適切にはかることが悪いのではありません。他人と神との関係を自分が決めるような真似をしてはいけないということです。
自分は絶対に正しい。この原理を自分の中に有するから、人間は恐ろしいことができるのではないでしょうか。「するのは仕方ない」あたりから始まっても、「してもよいことだ」となり、「するしかない」「しなければならない」と人間の理性は推論を重ね、すべてを正当化していきます。歴史の中に、そう判断していったリーダーを探すことは難しくありません。とくに戦争に関する判断は、すべからくそのようではなかったのでしょうか。自分は善である、つまり「善い」という判断を自分が決めてしまうことからそれは起こるのですが、まさに善であるかのように偽っているだけに過ぎません。
主人の帰りを待ち備えをしていたしもべは、当然しなければならないことをしていたに過ぎません、と答える心をもっていた故に、主人のお褒めを受けました。いつ自分が王をもてなしたのですか、と真顔で尋ねるほどに自分の善行に気づかなかった人々は、永遠の命に入れられました。パウロは、自己推薦する者たちを愚かだと評していました。かといって、やたらと自己卑下をする輩もおかしいと見られています。私たちは、救われた罪人に過ぎません。ただ、楽園を追放されたアダムとエバに皮衣を神が恵んでくださったように、神との関係に置かれている者にはいまキリストが着せられています。誇るものは自分の中には何もありませんが、このキリストだけは誇ることができます。だから、キリストをたたえる賛美を、私たちは今日も、明日も、歌い続けることが許されているのです。