どう見えているかのひとつの可能性

2018年1月13日

SNSというのはどうあるべきか。そんな問いへの答えというものが決まっているわけではないでしょう。開いた人の思惑はあったかもしれませんが、参加した者たちがしたいと思うようになったこと、使い道がそこに見出され、また時代の動きの中で流れていくことは当然です。SNSの悪い影響が社会問題化されることもあるし、良いことをもたらすこともあるわけです。
 
牧師や神学生などで、コミュニケーションのために用いられている場合が多々あります。私も一信徒でありながら、そのネットワークの中に紛れ込ませて戴いて、勝手なことばかり申し上げております。
 
そんな中で、ある若い視点からの声をなにげなく知りました。実は私もそれは感じていましたので、私の口を通して表してみようと思いました。ですから文責はもちろん私にあります。失礼を承知で提言します。お気に障る点があるかもしれませんが、次の世代のために、「おとな」になって耳に入れご一考くだされば幸いです。
 
もちろん、牧師が政治的な発言をしてはいけない、などという決まりはありません。政治に対する意見は持ちましょうし、それを言明することも社会的に必要なことがあるでしょう。しかし、同じ意見を言い放つにしても、反対する立場の人を揶揄するかのような表現で一方的悪し様に言うのはどうでしょう。政策内容の議論でもなく、また弱い立場の人の声を代弁して訴えるという目的の主張でもなく、ただ非難めいた呟きだけをぶつけてどこか嘲笑するかのような口調で言い放つという記事を、垂れ流しにしてはいないでしょうか。それでいて、ではどういう政策にすれば希望がもてるのか、という意見をそこから見せてくれるわけではない場合すらあるわけです。
 
政治を(適切に意味において)批判することは、あってもよいと思います。見張りとしての役割を担うのも、預言者的な仕事を受け継ぐ者の務めであるとも言えるでしょう。しかし、その政策や政治家のどこがどのように批判されるべきなのかの議論を展開するのでなく、恰も人格を誹謗するかのような口調だけがそこにあるのを、若者たちは見ることがあるのは事実です。そしてそれだけを見ると、これは公平ではないことだ、と理解します。また、揶揄する側のほうを、奇妙なことをしているものだと見てしまいます。殊に、それが名の知れた神学者や牧師、また教会の壮年であるなどするとと、その中傷めいた発言に幻滅さえしかねません。もちろん、多くの方はそうではないのですが、中にはそのように受け止められるものがあるということは否定できないように思われます。
 
批判するほうは、どこか「一連の」批判に上乗せしているつもりなのかもしれません。互いに持つ意見の分かった仲間同士で言葉を連ねているつもりなのかもしれません。しかし、若者は、突如その記事だけを見るのです。すると、なにか「いじめ」でもしている者のような言い方や態度であるように感じることは、私も自然な成り行きであるような気がしてなりません。
 
なにも、パウロの一部の発言のように、権威者には無条件に従えと言っているかのような教えを信奉しろと申すつもりはありません。果たして牧師というものは、ひとの悪口を一方的に言い広め、裁くかのような振る舞いをして自分は正しいのだと宣伝する、そんな立場なのか。教えているキリスト教とはそういう教えなのか。口では愛だ赦しだ希望だと綺麗事を言っていても、実際世の中に向けて言っていることは違うのではないか、それでは世間ありきたりの普通の人々と何も違わないし、むしろそれこそ偽善ではないのか。そんなふうに目に映ったとすれば、キリスト教に希望を期待した若者は失望しかねないのではないか、と問うだけです。ネットや出版物として公開されたものは、いろいろな立場の人がそれを見聞きします。配慮したつもりでもなかなか、ある立場の方を傷つけるということは起こり得ます。私はそれを、かつてある原稿を書いたときに、今は海外でお勤めのある編集の先生に教わりました。それでも不注意や至らなさがあることは痛感していますが、大切なことを教えて戴いたと感謝しています。
 
他方また、生まれた時から不況しか知らないような若い世代にとり、希望すべきイメージすら体験的に描くことができないままに、現状を打開するという展開に魅力を感じない空気すらあるのも事実で、ネトウヨはもちろんのこと、政治思想的には右傾化が目立つという分析もあります。ですから、よけいに政治に反対する熱気に違和感を覚えるということがあるかもしれません。
 
それでも、多くの純朴な若い目にそのように見え得る言動をもしかすると自分は取っているのではないか、と考えてみること、牧師ならずとも必要なことではないか、と思うのです。とはいえ、弱者のために代弁しようとして、政治の圧力に立ち向かうその発言や行動力は、私のような者から見れば、たいへん勇気のある実践であって、それこそ口先だけで綺麗事を言うようなこととは違う、大変な時間や労力の犠牲を伴うものであることは間違いありません。尊い働きとして用いられるべきことと、その労に対して報いなり祝福なりがあるようにと願います。そのような自戒の視座を忘れることのないように、私は私なりに、「こちらのほうに幸せがあるよ」と指し示す道標のような仕事を、続けていきたいとは考えています。



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