神の言葉が生き、生かされますように

2018年1月5日

画家のゴッホ(1853-1890)は生きている時に、まともに絵を評価されなかったと聞いています。画家としての生活は晩年であったにしても、存命中に売れた絵は数枚に留まると言われています。その死後認められていまは高額で取引され、誰もが絶賛する画家となっていますが、ゴッホ本人は、自分の名声などまるで知らずに、いわば寂しく死んでいったことになります。
 
バッハ(1685-1750)の音楽も、後に芸術として高く評価されましたが、自分でオルガンを演奏している時には特別に偉大な評価をされたわけではなかったと思われます。恐らく演奏家としての腕は認められ、教会で役立てられていましたが、現代私たちの世で受け容れられているほどにその作曲の技が称賛されていたのではなかったことでしょう。音楽家たちには知られていたとしても、一般に称えられるようになったのは、売れっ子のメンデルスゾーンが「マタイ受難曲」を上演した(1829年)からだと言われています。
 
実力のあるミュージシャンや俳優が売れるとは限らず、運や事務所の力によって名声を得るものだというのが常識であるかのような芸能界においても、似たようなことがあるかもしれません。夭死した歌手や俳優が伝説化するということもしばしばあります。人物の評価というものは、なんとも分からないものです。
 
パウロにしても、おそらくそうだったのではないでしょうか。最大の福音伝道者パウロ。私たちはそのような肩書きで見てしるのですが、パウロ書簡を冷静に見ていくと、教会員から無視され、馬鹿にされ、他の伝道者より下に置かれている様子が見てとれます。また、エルサレム教会からしても、キリストを知らぬ自称使徒であり、献金を届ければいくらか認めてやるというかのような使い走りのような役目を強いられた気配すらあり、共に伝道しようとした仲間もパウロを離れて行動するほどでした。もしも当時私たちがかの地に降り立ち、キリスト者がいるということを知り、たとえ信仰をもったとしても、パウロという人物をどう思うかと尋ねられたら、イエスを知りもしないのに使徒などと自称する胡散臭い非主流派で、極端なことを主張している、怪しい奴だと見なす可能性が高いのではないでしょうか。
 
そもそも主イエス自身、認める者が少なく、まして従うなどというのは外れ者だと思われたに違いありません。イエスは見る影もない地上での生涯を送りました。その生涯が、描かれた福音書の姿そのままであったと判断するのは難しいかもしれませんが、後になって神の子として、メシアとして評価されるに至るとき、果たして私たちは、どのイエスと出会うのでしょうか。福音書の記述の向こう側にある生々しい実態を、ゴシップ紛いの好奇心で盗撮しようと私は思いません。ある歌手の歌に感動し、勇気づけられる人がいるとき、その歌手の私生活の乱れを嗅ぎだし悪い評判を流す者がいたからといって、その歌を胸に私が、また人々が、明るく歩んで生きていけるとしたら、何の問題がそこにあるというのでしょうか。歌手の実像も知らないで虚像に騙されているなどと言われる、愚かなことなのでしょうか。
 
自らの子どもを5人も棄てたルソーの教育論により、人類は近代的な教育の必要を覚え、子どもたちもまた助けられたことでしょう。浪費癖のため生活は破綻し、妻たちを苦しめ早死にさせたレンブラントの絵が私たちの信仰心を強めたことも確かでしょう。天才モーツァルトの遺した下品な手紙が、その音楽を貶めることはたぶんありません。パウロが当時どのように扱われていたにしても、パウロの言葉は人を生かす力を持ち得ました。後世の評価からする業績から、その人物を理想化することは間違っているかもしれませんが、その逆に、その人となりが尊敬できないからと言って、生み出した作品まで否定される必要はないと思うのです。
 
そう言えば、洗礼を自分に授けた牧師が除名されるようなことを行う人となったとき、その洗礼は無効になるのか、といった議論がなされることがあります。概ね、その洗礼は有効だという判断に傾きます。神の恵みにより受けるのであるから、肉の人の手がすべてなのではないという見解でしょうか。人として尊敬されるべき人でなければ説教をしてはいけないなどと決める必要はないと思われます。このことは逆に、牧師先生と和やかに尊敬される故に神の国に相応しいはたらきをしているとは限らない、ということにもなります。
 
もちろんイエスは、こうした人間の基準をそのまま適用することはできません。イエス自身、「人間」とはまた異なります。徹底的に人となったにしても、人と「なった」イエスが、ただの「人間」と等しく置かれてしまうわけにはいかないことでしょう。また、そのこと自体を信用できないとする気持ちの人も実際いると思われます。それはそれでよいのです。聖書が聖書としてそこにあるとき、その字面のままには信用が置けないとする理解も、確かにあるわけです。聖書はその意味で、つねにすでに神の言葉で「ある」ままのものではないと言う見方ができます。認識主観論的になってしまう虞はありますが、私が聖書を知るまでは、私にとり聖書は神の言葉で「ある」のではなかったからです。しかし、ある出会い方をした時、それは私にとり神の言葉と「なる」体験をしました。礼拝の場にも、様々な立場の人がそこにいる可能性があります。説教を通じて、初めてそのことばが神の言葉と「なる」体験をする人も現れて然るべきでしょうし、すでに信じていた人も、改めて、あるいは別の形で、神の言葉と「なる」聖書のことばと出会う可能性はいくらでもあるし、そうあってほしいと願います。
 
「お年玉」と称して、教会から、聖書の通読表を戴きました。この日にこれを、というのは私は別のスケジュールで決めていますから、このように読んだところにマークをしていくというのは、やりやすいと思いました。口語訳・文語訳・新改訳・新共同訳とその年により使う聖書を変えてきましたが、ここのところ、kindleに入れて持ち歩いているという理由で、新共同訳が続いています。2018年末には新しい版も出るといい、楽しみです。新しい新改訳はまだ入手していません。一度フランシスコ会訳にも挑戦しようかしらと思い、それでいくことにしました。さすがに持ち歩けませんが、家にいる時間の中で読もうと思います。カトリックの立場とはいえ、注釈が横(か次あたりの頁)にあるのは便利ですし、地図や図版も適宜示されています。新共同訳ならばスタディ版に匹敵します。近年の文献学の成果をかなり取り入れた、思い切った解釈もあり、決して保守的な護教的研究で終わりはしないのが魅力です。
 
説教から、また日々の通読から、あるいはまたふとした時に、そして誰かの言動を目の前にして、神からことばが投げかけられてきたことを覚え、それを受け止めた自分が変えられていく。自分の中にことばが生きてはたらくのを知る。私の中で神の言葉が生まれる、または息を吹き返す、そんな機会が、今年私の中で、皆さまの中で幾度も幾度もありますように。神の支配が自分自身の中から始まり、それが拡大していきますように。どんなに見映えのない、弾かれものであるような自分の生き方の中にも、神はその自分を鷲掴みにして離さないという確信を胸に、天を見上げて、歩み続けていくことができますように。このことばは、人を立ち上がらせることが「できる」からです。



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