7と84

2017年12月31日

また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。(ルカ2:36-38)
 
 
今日はこのアンナの記事の中に目立つ、二つの数字についてお話しします。「7」と「84」です。シメオンについては数字ひとつないのに、どうしてアンナについては二つも数字が用いられているのでしょう。それほど必要な情報ではないと思いませんか。
 
「7」については、聖書でよく聞く数字ではないかと思います。例は挙げませんが、実にたくさんの7にまつわる句が出てきます。まずは一週間が7日であるということが身近に感じられます。日本では明治以前、5が生活のサイクルでした。実に明治政府ですら、最初は1と6の付く日を休日とする、とお触れを出したのですが、欧米との交易のために7に合わせたというのです。曜日を取り入れ日曜日を休日としたのは明治9年のことであったと言われています。
 
月の満ち欠けにより、そもそも一カ月が定められたのですが、新月から上弦の月までがおよそ7日というサイクルであったことと関係するのではないか、とも言われますが、ともかく聖書では「7」という数は神聖な数、また完全な数を表すものとされました。その理由については諸説あるようなので、興味のある方は調べてみてください。  
ここでは私の「説」を紹介します。
 
「3」はしばしば神の数と言われます。キリスト教徒は、「三位一体」という理解で、父なる神・子なる神(キリスト)・聖霊の三つでいて一つの神という考え方をとります。律法では、三人の証人がいて証言の確実性が保証されるとされていました。神が人を呼ぶときには、重要なときには二度その名を繰り返して呼ぶことが多いのですが、神ご自身の中では、イザヤ書で「聖なるかな」が三度繰り返された幻が描かれているように、三度が完全な事柄を意味するものと見なされたのではないでしょうか。ペトロの否認や、従うかの問いの三度も思い起こされます。
 
「4」は聖書で人間世界の全体を意味するように思われます。東西南北(この順序については触れられる各箇所で様々な言い方がなされているのも面白い)で四方すべてを表すように、人間の世界の完全さを知らせるときに4が使われることがあるのです。
 
この「3」と「4」の二つの数字で、神と人間の全体を覆うものとすると、それらの「和」が「7」となります。神と人との出来事の全体を示すに相応しい「7」をここに見る思いがします。
 
ところで聖書にはもうひとつ、「12」という数もよく出てきます。イスラエルの12部族が有名ですが、7と共に黙示録には12に関する数字が多々登場します。もちろん、イエスの第一の弟子としての使徒は12人を数えました。ユダを失ってからは、12にするためにわざわざ一人を抽選するほどでした。神が人に対して権威をもって言い渡すものとしての、やはり完全を表す数としての12です。
 
すると、すでにお気づきになったと思いますが、「3」と「4」の積が「12」です。神と人との関わりの、もうひとつの形が12となるのです。
 
アンナは、夫と「7」年間を共にしました。かつてイスラエルは神と共に歩みましたが、イスラエルは神を裏切り、大帝国による捕囚を通して苦難を浴びました。その後国土を回復したものの、新共同訳聖書の「続編」において、シリアの支配を受け、束の間の独立を得たものの、その後ローマ帝国の支配下に入ることとなりました。イエスが生まれたのは、その時代の最中でした。イスラエルは神と交わり歩むことから閉ざされていた時代を過ごしていたことになります。
 
アンナは84歳になっていました。この情報は、もちろん真実であろうかと思います。しかしわざわざ記すほどの情報でもないと思われます。ところがこれもお気づきかと思いますが、この84という数字は実に特殊な数字となっています。
 
そう、完全数である「7」と「12」の積が「84」なのです。神殿を離れず祈りつつつねに神に仕えていた民はこの祝福の時に、神を賛美し、神の民の救いを待ち望む人々のために救い主を知らせ始めるのです。
 
アンナの齢84の時、イエスが生まれたことで、完全な時代が到来しました。ここから先は、メシア(キリスト)の支配する時代となります。イスラエルの神殿により救いがもたらされるとされていた時代は終わり、新たな救いの歴史がここから始まることになります。それは完全な救いをもたらします。70年ほど後、エルサレムの見える神殿は崩壊します。しかし、三日で建て直されるとイエスが告げた新たな神殿は、今も見えない「教会」という形で天へ向かって建設中です。その「教会」の一部に、私たちもいます。そして、その建設のために、一人ひとりささやかではあっても、力を用い、同労者として名を連ねているのです。
 
聖書の数字に、あまり特別な意味を読み込みすぎるのも危険です。時に、その自分の解釈に酔いしれて、他の人の読み方を見下すような罠に陥る場合もあります。でもそうでなく、神の恵みを自分の中で深く味わうために、「無駄な」深読みをしてみるのも、有意義であるかもしれません。



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