キャンドルの灯

2017年12月25日

24日が主日である年は、朝の礼拝から夜のキャンドル・サービスまで、教会に住まうような方も少なくないことでしょう。移動するクリスマス礼拝と、固定したキャンドル・サービスとの関係でなせる業です。却って、一日で終わるから楽な気がする、という人の声も聞きました。
 
それはそうとして、この日付自体に意味がないことは一般的になってきたとはいえ、クリスマスの意味もなかなか伝わっていないのも事実。あるラジオ番組で、「メリークリスマスの『メリー』の意味は?」というクイズで、パーソナリティが「羊!」と答えてブザーが鳴っていたのは、できすぎていて、台本にあるのかと誤解したほどでした。
 
キャンドル・サービスは、夜の礼拝です。これが日常的な(一般的な)礼拝とは異なります。しかも冬。暗い冬の時、ローマ帝国のころには、一時、月の名前すらありませんでした。春分のころのいまの3月が一年の始まり。冬至を迎えた後はあまりに寒くて外に出ず、2カ月間ほどは名のない月の時季を耐えていたといいます。そこから日が長くなる冬至の希望などと言われますが、実のところ冬至から2カ月ほどが暗黒の時期でした。
 
この暗い、寒い、閉じこもる風景の中で、礼拝の場に、キャンドルの炎が灯ります。小さな、頼りない炎です。風ですぐに吹き消されてしまうように、揺れながらかろうじて光と暖かさを保ちます。けれども、火が燃え続けるためには酸素の供給が必要です。つまり、新しい風が吹いてこないと、燃え続けることはできません。教会にも、新しい風が必要です。嵐はなくてよいですが、穏やかな変革は望ましいとも言えます。また、風は当然、聖霊を示すものでもあり、神からの命の息をも表します。揺らめくことを、悪く決めつける必要はありません。また、ランプであれば、油が切れれば灯心がくすぶり始めます。もはや風よりも油が必要です。愚かな乙女ならずとも、皆うとうと眠ってしまっていたそうです。しかし目覚めたとき、油の有無で運命が正反対に変わりました。油とは何でしょう。いろいろな受け止め方があってよいと思いますが、ここではいま、あぶら注がれた者としてのメシア・キリストを思い起こしてみましょう。キリストがいまここにいるとき、炎は消えることがないのです。
 
一つひとつの炎は、小さなものです。この程度の灯りでは何もできない、と嘆きたくなるかもしれません。まるで選挙で自分の一票くらい何の力もないと思ってしまうように、自分ひとりくらい、痛みをもってこれをしても何の意味もない、と落胆するかもしれません。けれども、ひとりの小さな手でも皆が集まれば何かできる、と歌われるように、小さな炎が一つ、三つと集まれば明るく輝くようになっていきます。暖まれる範囲も広くなりましょう。その光が拡がっていくことが望めます。
 
一つめの光、二つめの光といったいくつかの光が、過去のベツレヘムでの出来事のときにあったとすれば、このカウントはその後の歴史の中で着実に数えられていることを求めています。幾つめの光であるかは知れませんが、キャンドルによる礼拝を行ったこのクリスマスの教会で、その系列に並ぶ光が灯されたに違いありません。一人ひとりの小さな灯りも、高いところに掲げることで、そして共同体の祈りと共に灯火が集められていくことで、世に光を輝かせることになるでしょう。
 
暗さの谷底にいる人々にも、高く光が掲げられれば、光が射しこみます。主の光が一番高いところから照らすとすれば、いくらか低いところであっても構いません。教会が、温もりのある光を掲げて照らすことが、できるはずです。私たちの心の中も、暗さが支配しています。この社会や世の中も、暗さがいっぱいです。でも、光の希望があるのです。
 
まず私たちの心の闇を、神がくまなく照らして、神の光の世界に誘ってくださいました。次はこの灯りを自分の立ち位置から照らすようにしましょう。暗き中で俯いている人、暗きところに強いられている人に、その光を届けましょう。また、届ける役割を果たしている団体の活動のための援助をしましょう。そうしてキリストのはたらきの一端を担い、同労者と呼ばれて恥ずかしくない歩みを始めましょう。そのうえで、僕としてなすべきことをしたに過ぎない、という思いを忘れないようにしたいものです。
 
夜の礼拝の意味を、私なりに、噛みしめてみました。そして、その祈りを、昨夜お献げいたしました。聖歌隊の賛美を聴き、それを手話で伝えながら、メッセージを聴きながら、そして会堂に点々と灯る光を見つめながら与えられた、神との対話でした。



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