クリスマスは誰のために
2017年12月18日
クリスマスは、誰のためにあるのでしょう。
そう、すべての人のため。……でも、もしその「すべての」に誰かを含めていないようなことがあるとしたら、私たちは偽りを言っていることになりますね。
住民登録のために、臨月にも拘わらず旅を強要されたと記録されているマリアとヨセフの旅。聖書は短く次のように記しています。くどいですが、見ていると面白くなったので、ありったけ挙げます。中には最新版でないものもありますがご容赦ください。
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(新共同訳)
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(新改訳)
客間には彼らのいる余地がなかったからである。(口語訳)
旅舎(はたごや)にをる處(ところ)なかりし故なり。(文語訳)
旅舎(はたごや)におる処なかりしゆえなり。(文語訳の筑摩編集版)
仮宿に場所なかりしが故なり。(永井訳)
宿屋には彼らのへや<場所>がなかったからである。(詳訳聖書)
旅籠の中には、彼らのための居場所がなかったためである。(岩波訳)
宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(前田訳)
宿屋には場所がなかったのである。(塚本訳)
宿屋が満員で、泊めてもらえなかったからです。(リビングバイブル)
ベツレヘム何かの家々には、登録の人が一杯いて、人の住めるような場所は、もうどこにも無かったのである。(現代訳)
救い主は、居場所のないままに生まれたのでした。他の事情については詳しく記さないこともあるルカが、ここだけはしっかりと理由を書くほど、必要を覚えた表現でした。
好きで聞いているラジオの英語講座で、先日、若者が居場所を感じるところはどこか、という話題がありました。「居場所」は英語で「where they feel they belong」という表現になっていて、なるほど、と思いました。「they feel」は無い場合もあるでしょう。居場所とは、自分が属する(と感じる)場所だというのです。
自分はこの教会のメンバーだ、と言えなかった去年、私たち夫婦は、クリスマスにどこか肩身の狭い思いを抱えていました。周りの皆さんや牧師は、あたたかく迎えてくれていました。それでも、ここにいていいのだろうか、というような思いを否むことができないでいました。それが今年は、堂々とそこに座を与えられることとなりました。こうなるとあつかましいもので、ここは自分の属する場所だ、席だ、という気持ちがむくむくと沸き起こってくるから不思議です。
だから私たちは、去年のことを思い起こし、いえ、そのことが根底にあり実のところ片時も忘れることができないでいるので、クリスマスに属する感覚をもてないでいるような方がたくさんいるのだ、という視座から、クリスマスを見つめるようになってしまいました。
大切な人を失ったひと。仕事をなくしたひと。人間関係が崩れて落ち込んでいるひと。失敗をして責任を負わされているひと。間違いを、あるいは罪を犯して顔を上げられないひと。家庭が壊れて、まさに居場所がないひと。ほんとうに住む家がないひと。何かハンディキャップがあることで不当に不自由な思いを強いられているひと。いじめられていて、死にたいと思っているひと。明日の食べ物をどうしようかと思い悩んでいるひと。教会というところに居場所を見失っているひとも、きっといます。……そんな姿を考えていると、いくらもいくらも描くことができそうです。しかも、これはある意味で想像で挙げただけですが、実の当事者の切実さは口に出すこともできないほどです。
全うな宿屋には、居場所がなかった、わけありの夫婦。しかし、その夫婦を通して、クリスマスの出来事が起こりました。生まれた救い主は、飼葉桶に横たわり、地上では枕するところがなく、十字架に頭を垂れた方でした。この地上は、その救い主の安らぐ居場所ではなかったのでした。この主に信頼を寄せる者もまた、同じようなものでありましょう。地上を旅しつつも、国籍は天にあるといいます。
教会というところは、神の国の大使館であるのかもしれませんが、現物としての教会はやはり地上にありますから、決して理想郷となっているわけではなく、だからそこに居場所感をもてない人も、少なからずいるし、いてもよいと思います。かといって、教会共同体は、必ずしも絶望するようなところでもなく、共に神を礼拝する、霊に包まれた、霊につながれた魂がいてよいところであるのでしょう。
楽しい催しもよいでしょう。喜びの賛美をいたしましょう、というかけ声も、間違っているわけではないでしょう。でも、けれども、です。いたたまれない気持ちでそこにいるひと、あるいはそんな賑やかな騒ぎのクリスマスだったら参加できないと教会に行けないひと、しかも涙と共にキリストを見上げすがる思いでいるひと、そんなひとにとっては、クリスマスはハッピーホリデーや楽しい集いとは言えず、居場所のなかった救い主が、自分の貧しい心とからだのところに生まれてくださる静かな静かなひとときであるかもしれません。いえ、むしろクリスマスは、そんなひとにこそ、訪れる出来事であるのだ――私たち夫婦は、この一点をいまは見つめています。この一点にこそ、キリストが礼拝されているのだ、少なくとも、キリストは共にいてくださっているのだ、と。